書評『日本国紀』百田尚樹

歴史から学ぶとはなんなのだろうか。

学ぶべき歴史とは、一つのまとまった民族の歴史だ。

民族は国家を作ってしのぎを削ってきた。

国家を興せば滅亡もする。

滅亡した時に歴史は終わる。

滅亡しなかった理由は学ぶ価値がある。

滅亡した理由は教訓になる。

前者は成功体験で、後者は失敗談だ。

明治維新立憲君主国家再興の歴史だと思うので

第八章から成功体験か失敗談かを判別していきたい。

 

日本国紀

日本国紀

 

 

 

第八章

戊辰戦争

 戊辰戦争のみならず、大政奉還から新政府軍による

 粛正とも呼べる執拗な追撃が行われた。

 優秀な人物が殺されたこともあり、失敗談という評価にしたい。

 また、靖国神社には戊辰戦争の賊軍や伊藤博文

 大久保利通なども祀られていないとコラムにある。

 祀るべきではないかという問いかけには、その通りだと答えたい。

 

五箇条の御誓文

 これは敗戦の折、日本人のよりどころになる。

 内容は、話し合いを推奨し、身分に関係なく国を治めるというもの。

 民主主義を意味している。

 古来からある誇るべきものなので、成功体験に分類できる。

 

日本大改造

 江戸の名称変更・廃城令は日本の歴史ある文化を損なうとして失敗談である。

 岩倉使節団が、ビスマルクから国際法の導入について助言をもらう。

 これは貴重な助言で、軍事力を背景に外交を展開する世界を教えてもらった。

 成功体験である。

 

驚異の近代化

 鉄道・銀行・富岡製糸場・鉱山・教育・身分制度改革・地租改正・

 徴兵制・西洋文化の強制・旧暦の廃止など。

 五年で日本は作り替えられた。

 日本は天皇陛下が存在するからといって変化しない国ではない。

 その証明であり、成功体験であると思う。

 

明治六年の政変

 征韓論を端を発した土佐・肥前閥と薩摩・長州閥の争いだった。

 五箇条の御誓文にある万機公論が貫かれているようには思えない。

 派閥争いは、現代の政治にも見られる。

 政策を派閥間の駆け引きで決めるのは失敗談であり、

 未だに反省がなされていないと思う。

 

台湾出兵

 宮古島の島民が台湾に漂着したが、原住民に虐殺された。

 清へ抗議するが、台湾は統治外の土地として相手にされなかった。

 日本は台湾へ出兵した。

 この時に琉球王国の帰属を清と確認し、正式に日本の領土となった。

 台湾は清の領土であると認めさせた。

 離島の住人のために軍事力を使った報復をした。

 これは自衛権の発動であり、成功体験と言って良い。

 竹島拉致被害者の奪還は自衛行為である。

 成功体験に学んで欲しい。

 

朝鮮に開国させる

 近代的な国交を結ぼうとしていたが、

 砲撃を受けたので反撃した。

 それで日朝修好条規を締結させた。

 砲撃を受けて反撃したから外交を有利に進めたという、

 成功体験に違いない。

 なぜ竹島で同じことができないのか。

 憲法のせいである。

 

西南戦争

 明治六年の政変で書いたとおり、

 五箇条の御誓文から外れた行為である。

 失敗談であると思う。

 

 

第九章

立憲政治へ

 一部の重鎮たちが政治の実権を握っていた。

 五箇条の御誓文に従い、立憲体制を整えるための

 自由民権運動を弾圧しつつも国会の設置を目指した。

 成功体験と言っていい。

 

帝国憲法

 以前書評した『天皇は本当にただの象徴に落ちたのか』に

 詳しく、配慮がなされていることが書いてある。

 天皇の統治する根拠を神話に求めず、

 歴史という事実に基づいていることを確認したい。

 事実に基づく憲法は、成功体験である。

 ここに『君が代』に関するコラムがある。

 知らないことばかりで為になった。

 

不平等条約に苦しむ日本

 領事裁判権の撤廃に成功したが、

 関税自主権は得られなかった。

 経済発展の妨げとなることから失敗談になるだろう。

 国際条約の変更がいかに難しいかわかる。

 コラムにて鹿鳴館へ苦言を呈している。

 こちらも失敗談であろう。

 

日清戦争

 南下するロシアに備えるため李氏朝鮮を独立、

 近代化させたかった。

 李氏朝鮮は清の影響を強く受けており、

 朝鮮の保守派が暴動を起こしたとき、

 宗主国として清が出兵した。

 で、色々あって日清戦争を経て、

 ようやく日本は朝鮮を独立させた。

 このときに立てられたのが独立門である。

 今や朝鮮半島との関わりは、なんの恩恵もない。

 ロシアの南下を防げたかどうかで評価がわかれる。

 

三国干渉

 フランス・ドイツ・ロシアの干渉で、

 日清戦争で得た遼東半島の返還を余儀なくされた。

 ただ莫大な賠償金と還付金で日本の経済は潤った。

 勝てば潤うという成功体験となった。

 

蚕食される清帝国

 列強が清から領土や利権を獲得していく。

 日本は、台湾の対岸にある福建省保全を約束させていた。

 時代の流れに乗ったふるまいである。

 

義和団の乱

 清国内の失業者や難民を吸収して、

 またたくまに大きな組織になった。

 清政府は、義和団を支援し各国の公使館を包囲した。

 そして、欧米列強に宣戦布告した。

 列強により義和団は鎮圧され、清は列強の半植民地となった。

 この時点で成功体験かどうかわからない。

 コラムで取り上げられた柴五郎の話を読むとわかる。

 各国の公使館が包囲された時、籠城して救援を待った。

 そのとき活躍したのが柴五郎であった。

 個人の活躍ではあるが、成功体験であると思う。

 

火薬庫となる朝鮮半島

 義和団の乱のあと、ロシアが満州に居座り、

 満州還付条約を反故にして南下政策を内外に誇示した。

 このとき、新聞がロシア討つべしと戦争ムードを煽った。

 ロシアに日本と妥協する意志がなかったことを考えると仕方がない。

 この時の公論は、正しかったのだろう。

 

日露戦争

 日英同盟の甲斐があり、日本はロシア・清との

 一対二にならずにすんだ。

 これは外交の成功体験と言える。

 敵は、数の有利を整えて襲ってくるという教訓でもある。

 同盟は、そういうときに役に立つ。

 ここのコラムでも個人の成功体験がある。

 高橋是清という人物だ。

 

日本海海戦

 ロシアのバルチック艦隊を日本が破り、日露戦争で勝利した。

 日英同盟の影響で、ロシアはイギリス植民地の港に入れず、

 ボロボロの状態であったからだ。

 外交が戦争を有利にするという成功体験であろう。

 また、有色人種は白人に勝てないという思いこみを破壊した。

 同時に、白人から警戒されることとなった。

 

ポーツマス条約

 ロシアに戦争を継続する意志があったため、

 疲弊した日本はやむをえず実入りの少ない条件で

 講話を結んだ。

 大国と戦うということは、自衛以外にする意味はない。

 だけどもここで戦っていなかったら日本はなくなっていた。

 自衛の達成をもって成功体験である。

 コラムは日英同盟の重要さと、陰の立て役者の話である。

 

怒り狂う民衆

 ポーツマス条約で賠償金を得られなかったことに、

 新聞が政府を叩き、国民も政府を叩いた。

 日比谷公園焼討事件が発生した。

 国民にロシアと日本の国力の差を解説した新聞は

 なかったのだろうか。

 これが自衛のためであると、

 賠償金のためではないと、

 条約妥結の意味を正確に報じる新聞はなかったのだろうか。

 著者も新聞が国民を誘導した事例であると分析している。

 国民が新聞に騙された失敗談であろう。

 

韓国併合

 失敗談である。

 

不平等条約改正の悲願達成

 日露戦争での勝利により、

 日本は欧米列強との不平等条約を解消した。

 強い者が評価されるという常識の中で、

 弱いところから始まり強い者に追いつくのは、

 簡単ではなかったと思う。

 忍耐と研鑽の成功体験である。

 ご先祖様達が諦めなかったことを誇りに思う。

 

明治を支えた学者達

 この項目は成功体験がこれでもかと取り上げられている。

 コラムでは作家らしい言葉の変遷を紹介している。

 

 

第十章

清帝国の崩壊

 ここでは日本がイギリスとの同盟により、

 ドイツの租借地を攻撃した。

 世論は国益にならない戦争への参加に異議を唱えた。

 外交と国益を天秤に掛けた公論があったのだと思う。

 公論が正しい選択をしたため成功体験だろう。

 

戦後の世界

 戦争特需で日本は潤った。

 同盟を守り、犠牲も少なく得た。

 成功体験だろう。

 ただ、近代兵器による世界大戦の実相を学ぶ機会を逃した。

 欲を言えば、失敗談だろうか。

 

国際連盟の誕生

 戦勝国国際連盟を作り、

 ドイツへ過酷な賠償金を請求した。

 これが後に第二次世界大戦への引き金になる。

 日本は、パリ講和会議で人種差別撤廃条項を成立させようとした。

 アメリカをはじめとする五カ国の反対で見送られた。

 世界で初めて人種差別撤廃を言ったのは日本だった。

 人種差別をなくそうとする今日を見るに、

 間違ったことは言っていなかった。

 成功体験である。

 

アメリカの敵意

 ポーツマス講和会議で、日本とアメリカで

 満州の利権を分けるように覚書を作った。

 それを持ち帰ったのだが小村寿太郎が破棄した。

 自国の利益を優先に考えたのか、

 採算が合わないからか、

 どちらにせよ、アメリカを敵に回した。

 国益を優先するのが外交だが、

 一人勝ちを許さないのも外交だった。

 無用な敵意を得たと言うことで失敗談であろう。

 

二十一ヶ条要求に見る日本外交の稚拙さ

 袁世凱に頼まれて「要求」という形で

 条例を密約した。

 この事前の密約をばらされて、

 日本は侵略者扱いとなり、

 中華民国反日感情を高めた。

 外交の失敗談である。

 どうにも日本の周りには被害者になりたがる国が多い。

 そもそも被害者になった方が正当防衛が成立しやすい。

 それが外交であることを学ぶ必要がある。

 

ワシントン会議

 日本が保有する戦艦の比率を下げさせられたことと、

 日英同盟を破棄したことが失敗談である。

 日英同盟を破棄した理由は、

 四カ国同盟を結べば国際平和になると考えたからだ。

 自国の安全を担保しない平和とはなんだろうか。

 平和を叫び、国防をないがしろにするのは、

 現在進行する失敗談である。

 

大正デモクラシー

 普通選挙制度・市民運動労働組合・部落解放・女性の地位向上。

 雑誌や小説・野球大会・宝塚歌劇団・動物園・遊園地・レコード・玩具。

 現代に通じるものがたくさん生まれた。

 成功体験だと思う。

 

関東大震災

  ここで取り上げている自警団の暴走について。

 流言飛語やデマで罪もない人が殺された。

 ことの発端は、一部の朝鮮人が殺人・暴行・放火・略奪を

 おこなった事実である。

 災害大国において、災害中の非道は非常に嫌われる。

 これを学んで欲しいのは、日本人ではなく外国人である。

 普段は温厚な日本人が、激昂する事例である。

 失敗談であろうか。

 

昭和

 昭和4年にアメリカのニューヨーク株式市場が

 大暴落したことで世界恐慌が起き、日本の農作物の価格が暴落した。

 加えて、昭和6年に例外で大凶作となり、多くの娘が身売りさせられた。

 政府は、金融緩和と歳出拡大で景気回復を成し遂げたが、

 欧米諸国は不当廉売であると非難した。

 高橋是清が禁輸出再禁止を掲げて、管理通貨制度へ移行したことで、

 さらに欧米諸国との経済摩擦に繋がり、

 イギリスやアメリカはブロック経済を始めた。

 輸出にたよりすぎた上に、英米と足並みを揃えなかったこと、

 これらが失敗談であろうか。

 

統帥権干犯問題

 軍縮会議を受けて、国防に不安が残った。

 それを当時の野党が「統帥権」を干犯したと批判した。

 国防に直結する外交の悪手を天皇統帥権と絡めるという、

 国民の感情を煽る手法を取ったため、

 軍人と民衆が暴走することになった。

 これは公論ではない。暴動を背景にした脅迫である。

 失敗談だ。

 

満州事変

 中華民国の軍人と民衆の一部が、

 日本やアメリカ・イギリス・イタリア・フランス・デンマーク

 などの外国領事館と居留民を襲撃した。

 列強は怒り、イギリスとアメリカはただちに南京を砲撃した。

 日本は中華民国への協調路線を保つため、

 列強をなだめ、国民へは嘘の発表をし、

 真実を伝えようとする集会を禁止した。

 自国の外交方針を優先するために、

 国民を犠牲にした失敗談である。

 この場合の公論とは、列強と話すことであった。

 暴挙を許すことでは決してない。

 日本政府の外交では植民者を守れないと関東軍

 判断するのも無理はなく、満州を制圧する。

 関東軍に公論を待てというのは、筋違いであろう。

 

満州中華民国のものか

 関東軍の手動で満州国を建国した。

 列強が批判し、中華民国も自国の領土だと宣言した。

 リットン調査団の報告では、満州事変が

 起きる相応の理由はあったとしつつも

 満州国の建国は認めず、国際管理を勧告した。

 これを受けて日本は国際連盟を脱退した。

 外交で一人勝ちは認められない。

 外交のために国民を犠牲にすることは暴走を生む。

 外交外交、日本の外交を担当する大臣は、

 外交方針のために国民を犠牲にしてはならず、

 一国を甘やかすために他の国の怒りを無視してはならない。

 現代にも通じる失敗談である。

 

五・一五事件二・二六事件

 五・一五事件ではブロック経済を誘発した経済政策と

 ロンドン海軍軍縮条約で戦艦保有するを減らし日英同盟を破棄した。

 二・二六事件では南京事件で国民を犠牲にし、

 中華民国を甘やかすだけでなく陸軍の予算も減らした。

 軍の暴走は国民を犠牲にする政治のために起きたと言える。

 公論とは国民を豊かにし、国民を守るためであるとわかる。

 百田尚樹は彼らをテロリストと書いた。

 テロリストは暴力で政治目的を達成する者として使われるが、

 フランスの暴力革命・恐怖政治が元である。

 革命派が反革命派を虐殺することで恐怖政治が成立する。

 だれを恐怖させるのか。

 国民である。

 では、国民の為に怒りを表明した軍に対して、国民は恐怖するのか。

 五・一五事件で助命嘆願運動が起きたのはそういうことである。

 二・二六事件昭和天皇が鎮圧に乗り出したのは、

 失政に目をつぶり、国民の声に耳を塞ぐ行為である。

 昭和天皇にならい、軍人をテロリストと呼ぶ百田尚樹

 私は好きになれない。

 昭和天皇の行いが正しいのであれば、

 このあとの日本は公論に基づく政治が行われるはずである。

 ところが、二・二六事件の首謀者らが死刑になり、

 公論は失われた。

 信頼を失った政治家が軍を批判できないのは当然だと思う。

 統制経済言論弾圧など国民は富むことも守られることも

 なくなった。

 これは国民の失敗談であろうか。

 

ファシズムの嵐

 ここは主にソ連・ドイツ・イタリアのファシズムについて

 書かれているが、ドイツやイタリアの独裁者が

 正当な選挙で選ばれたことへ言及している。

 その後、ドイツの反ユダヤに少し触れているが、

 なぜ反ユダヤになったかは言及されていない。

 ここも検証が必要な歴史であると思う。

 

ドイツと中華民国の蜜月

 第一次世界大戦で、日本はドイツの租借地を攻撃した。

 その遺恨もあり、ドイツは技術を提供するかわりに、

 資源をもらうため日本を共通の敵として扱った。

 敗戦後のドイツの苦しみを思えば、恨まれても仕方ない。

 

暗躍するコミンテルンと中国

 中国共産党の成り立ちと国共合作の話だ。

 こちらでも日本を共通の敵として掲げて団結した。

 コミンテルンに発足された中国共産党は、

 昔から日本を敵にして国内の統制を保っている。

 中国共産党を警戒するのが外交と言えよう。

 

廬溝橋事件から支那事変

 ここで教科書に載っていない事件が記される。

 通州事件と呼ばれる日本人が中国人を警戒し続ける

 事件だ。

 日本人女性が、老人から子供まで性器を損壊される

 ほどの仕打ちを受けて殺された。

 この通州事件を受けて、緊張が高まり、

 日本軍と中華民国軍は戦闘状態に入った。

 ドイツ・アメリカ・ソ連中華民国軍を支援し、

 日本は相手の物量もわからないまま戦闘を継続することになる。

 国民を守るという公論は間違っていない。

 守る方法は、敵を追い払うか、国民を逃がすかという

 方法があったと思う。

 敵が多いとわかれば逃げてもよかった。

 失敗談である。

 ここのコラムは、中国の大嘘として有名な

南京大虐殺」についてである。

 

 

第十一章

全面戦争へ

 支那事変の翌年、昭和十三年に「国家総動員法」と

 呼ばれる法律が成立した。

 前述した統制経済言論弾圧の正体である。

 日本から公論は失われていた。

 

暴れるドイツ

 ドイツのチェコスロベキアへの要求から

 第二次世界大戦へと書いてある。

 ここのコラムには、ドイツで迫害されたユダヤ人を

 逃がした日本人のことが書かれている。

 個人の活躍である。

 

第二次世界大戦

 ドイツの進撃を見て日本陸軍内に

 便乗する声が上がり、

 新聞もそれを支持し、

 近衛文麿内閣が「日独伊三国同盟」を結んだとある。

 統制されているので公論とは言えない。

 失敗談であろう。

 日本はアメリカから陰に日向に嫌がらせを受けており、

 それを打開するために戦線を拡大していった。

 

開戦前夜

 アメリカとの戦争を回避しようとしていた政府に対し、

 新聞は弱腰と非難し、国民を煽った。

 アメリカは日本の事情を知って知らずか、

 ハル・ノートと呼ばれる文書を突きつけた。

 これは日本を徹底して苦しめる内容だった。

 一部に曖昧な部分があり、それを深く読めていれば

 戦争にはならなかったかもしれないらしい。

 だからと言って公論が戻るわけでもないと思う。

 失敗談である。

 

真珠湾攻撃

 ここで国民の失敗というのはない。

 真珠湾攻撃の前に宣戦布告をアメリカに手渡すことになっていたが、

 ワシントンの日本大使館員がもたついた。

 そのため日本は不意打ちをしたと言われ、

 アメリカが戦争に参加する理由を与えた。

 大使館員の失敗談である。


戦争目的を失った日本

 石油を求めて始めた大東亜戦争

 インドネシアの油田を占領した。

 石油を輸送するのに民間の船を調達したが、

 護衛をつけなかった。

 そのためアメリカの潜水艦にことごとく沈められた。

 兵站を軽視した作戦だった。

 軍の失敗談である。

 

ミッドウェー海戦と言霊主義

 失敗を認めない運営をしていたため、

 反省がなく失敗を繰り返した。

 ガダルカナル島で多くの犠牲を出した。

 軍の失敗談である。

 コラムも目を覆いたくなるゼロ戦の話だ。

 

無意味な戦い

 サイパン島が奪われて、爆撃機空爆圏内となった。

 講話をすべきと主張する岸信介と反対する東条英機

 閣内不一致で東条内閣は総辞職となる。

 いくらか現実が見えてきて公論に戻った。

 小さな成功体験である。

 

神風特攻隊

 シーレーンを守るためにフィリピンで、

 アメリカ軍に神風特攻隊を仕掛けた。

 予想外の戦果はあったものの敗れた。

 アメリカ軍が沖縄に向かっていた。

 戦艦大和と二千機の特攻機が沖縄を守るために戦った。

 後に、沖縄を捨て石にしたとのデマがはびこるが、

 沖縄出身の兵士が二万八千人以上、

 沖縄以外の出身兵士が六万六千人以上、戦死している。

 どこが捨て石だ。

 彼らは沖縄を見捨てなかった。

 立派な公論に基づく行動だった。

 その歴史を残したことは、成功体験であろう。

 

悪魔の如きアメリカ軍 

 自虐史観がひた隠しにするアメリカの所行が書いてある。

 空襲で非戦闘員を殺した。これは国際法に違反する行為である。

 原爆の投下は、早期決着ではなく、実験だった。

 日本人を使った実験だったのだ。

 コラムは、ポツダム宣言を受諾するときのことが紹介されている。

 昭和天皇二・二六事件以来、二度目の親裁を行った。

 本土決戦で日本民族が滅ぶことを危ぶまれた。

 国民を守るための公論に基づくものだった。

 皇室の成功体験だと思う。

 

第十二章

連合国軍による統治

 前にも書いたようにポツダム宣言受諾は、

 公論に基づくものだと思う。

 

日本国憲法

 敗戦して連合国軍が占領した。

 日本に主権はなく、公論などあるはずもない。

 すべてが他人の手に委ねられた状態だった。

 その状態で作られたのが、今日の問題にもなっている

 日本国憲法だ。

 百田尚樹は読者に呼びかける。

 ハーグ陸戦条約には、戦勝国が敗戦国の法律を

 変えることは許されないと紹介している。

 今の日本には胸くその悪い憲法が居座っているのである。

 

極東国際軍事裁判

 ここも自虐史観では語られない部分だ。

 まず近代刑法では、後からできた法律、

 事後法によって人を裁くことは認められていない。

 そして、事後法で裁くために開かれた極東国際軍裁判所条例というのは、

 行政命令で国民を裁く法規命令ですらなかった。

 こういう裁判と呼べない私刑に近いことで、

 軍人たちは裁かれた。

 この裁判で判事を務めたインドのパール判事は、

 戦勝国による事後法で裁くことは国際法に反するとして、

 全員の無罪を主張してくれた。

 彼は恩人であろう。

 コラムでは、敗戦を迎えた現地で悲惨な目にあった

 軍人・民間人のことを書いている。

 特に女性が悲惨な目にあった。

 公論はなく、受け止めるしかない。

 

生き残った靖国神社

 カソリック神父らが意見を求められ、

 いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して、

 敬意をはらう権利と義務があるとし、

 靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、

 アメリカ軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう。

 この意見が採用されたかわからないが、

 靖国神社は今日も残っている。

 キリスト教の国が原爆を落とし、靖国神社を守る。

 複雑な感情しか残らない。

 現代では、靖国神社へ難癖をつける輩がいる。

 彼らは日本国民の権利と義務を無視している。

 また日本軍は、倒した敵兵を弔っていたことを紹介している。

 これは軍人の成功体験であろう。

 コラムには昭和天皇と戦争責任について言及している。

 

ウォーギルト・インフォメーション・プログラム

 戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画。

 これは、日本国紀を作るきっかけをもたらした

 アメリカ人のケント・ギルバート氏も認める所だ。

 GHQは、思想や言論を管理していた。

 出版物や表現活動は、検閲や焚書を受けていた。

 GHQが間違っているという情報は、日本人に伝わらなかった。

 また、この検閲や焚書にはあろうことか

 日本人の協力者がいた。

 本書によると東京大学文学部らしい。

 敗戦後とはいえ、祖国を痛めつけるために日本人が協力した。

 失敗談である。忌むべき人間性である。

 彼らは靖国神社に祀られるべき人間であろうか。

 

『眞相はかうだ』による洗脳

 ラジオ番組『眞相はかうだ』で、

 GHQが台本を書いた腐敗した軍部の真実を放送した。

 国民対軍部という構図を作り、

 罪悪感を植え付けつつも、責任は軍部に取らせた。

 ウォーギルト・インフォメーション・プログラムで、

 情報の検閲や統制がされているので

 国民は与えられた情報が正しいのか検証することができなかった。

 誤った情報を鵜呑みにした失敗談であるが、

 当時の人たちにどうにかできることでもなかった。

 

教職追放

 GHQに批判的な立場、帝国大学で指導的な立場、

 そういう教授を次々に追放した。

 変わって共産党員や無政府主義者を教授に置いた。

 また、教職追放をみて宗旨替えする教授も現れた。

 日本の教育はGHQに都合が良い人物だけに固められた。

 そこ学んだ人間が、日本が悪いと考えるのは当然だった。

 教育を則られた失敗談であるが、

 これもまた当時の人にはどうにもできないことであった。

 

公職追放

 政治家・軍人・作家・新聞社社長・映画監督など、

 GHQに批判的な立場の人が仕事を失った。

 言論を統制するために、言論・表現分野の人物が狙われた。

 真実を追究する精神はねじ曲げられた失敗談である。

 コラムはスパイと洗脳について書かれている。

 ここからは持論になるが、

 教育と洗脳は紙一重であると思っている。

 母国を良いと教えるのが教育で、

 母国を悪いと教えるのが洗脳である。

 

占領軍と朝鮮人の犯罪

 占領中に、アメリカ兵に殺された日本人は四千人近く、

 強姦された婦女子は記録されているだけでも二万人にのぼったとのこと。

 また、GHQ朝鮮人を日本の奴隷と勘違いしていたらしく、

 戦勝国民として無法な振る舞いを放置していた。

 が、あまりにもひどいため、後に治外法権の地位でないと訂正している。

 このとき、朝鮮人は、日本人の土地を奪っている。

 アメリカ兵や朝鮮人の無法を日本の警察は取り締まれなかった。

 軍隊が負けるということ、軍隊がないということ。

 どちらも恐ろしい結末にになることをここから学ばねばならない。

 失敗談だ。

 コラムは、教職追放・公職追放社会主義者共産主義者が、

 一大勢力をもったことが書かれている。

 

日本改革

 GHQが五大改革と称し、経済の民主化を行った。

 経済民主化は、財閥の解体と農地改革であった。

 百田尚樹は、これらを説明した後、

 「平等性と自由競争に富む社会になったといえなくもない」

 と戦前と比較して、暗に肯定している。

 過去を否定したところで、現在が変わるわけではない。

 ただ、過去を肯定したとして、現在が好きかと言われれば、

 好きではない。

 万機公論に決すべしの公論とは、

 国民を守り、国民を富ますことである。

 しかしその前提は、日本国民が話し合ってこそである。

 連合国に好き勝手にさせて、公論と呼べるものではない。

 現在でどんな恩恵を受けようとも、恥ずべき失敗談である。

 

華族制度の廃止

 元公家、江戸時代の大名家、維新の功労者が

 爵位を持っていた制度が華族制度である。

 連合国の感覚で身分制度を裁いたのである。

 GHQの書いた日本国憲法で廃止された。

 余計なお世話だった。

 私は、華族制度のある現代を見てみたかった。

 これは成功体験でも失敗談でもない。

 コラムは、マッカーサーについて書かれている。

 

第十三章

独立するアジア諸国

 日本が石油を求めて植民地を解放したことで

 自信を持ったアジアの国々ある。

 独立に関わった指導者たちの言葉を引用してある。

 日本が人種差別をはねのける助けができた。

 成功体験であろう。

 

再び混乱する世界

 ソ連が東ヨーロッパの国々を共産化する動きをし、

 西側諸国がNATOを作り、ソ連側もWTOを作った。

 中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党

 内戦を再開した。

 日本を共通の敵として中国を支援したのは

 ドイツ・アメリカ・ソ連だったことを思い出して欲しい。

 日本とドイツがなくなり、本来の敵同士が浮き彫りになった。

 そしてどこにも共産党員が絡んでいるのだ。

 このとき、北朝鮮も生まれた。

 日本国紀では、ソ連に思想教育された人物・金成柱が

 金日成として送り込まれたとはっきり書かれている。

 

日本独立

 昭和二十五年、ソ連の支援を受けた北朝鮮

 韓国へ侵攻して朝鮮戦争が始まる。

 アメリカは連合国軍として韓国を救援した。

 北朝鮮軍を押し返したが、ここへ中国の人民解放軍が加わった。

 これにより戦争が長期化し、アメリカ軍への軍事物資を

 供給するために日本の経済が息を吹き返した。

 日本が主権を取り戻す期日は決っていなかったが、

 共産主義国家の動きに合わせてアメリカは決断した。

 サンフランシスコ講和条約を締結させて独立させようとした。

 ソ連は、日本が西側へ組み込まれることを嫌がり、

 日本のコミンテルン(国際共産主義者)へ講和条約を阻止させようとした。

 野党の日本社会党日本共産党が講話締結に反対した。

 東大総長などの教職追放や公職追放で地位に就いた者も反対した。

 朝日新聞をはじめとするマスメディアも反対した。

 公論の前提である国民の議論に見えるが、

 国民を富ませる、守るために主権を回復するのは当然なのだ。

 それに反対するのは、公論に反する。

 共産主義とは、公論の敵であるとわかる事例だ。

 昭和二十七年、サンフランシスコ講話条約が反抗し、

 日本は主権を取り戻した。

 コラムは、東京裁判で戦犯扱いされた人々の早期釈放を

 求める話だった。

 サンフランシスコ講和条約に基づき、どの国からも反対されず、

 戦犯とされた人々は赦免された。

 共産主義で公論を妨げられる失敗談であり、

 日本のために戦った人たちを戦犯から救い出した

 成功体験が書かれている。

 

日米安全保障条約

 日本国憲法では、軍隊を持つことができない。

 サンフランシスコ講和条約で日本から占領軍が撤退すると

 国民と国土を守ることができないとなり、

 日米安保条約を結んだ。

 この最初の安保条約は、アメリカに有利なもので、

 日本にとって国民と国土の安全を保障するものではなかった。

 昭和二十七年、韓国の初代大統領が李承晩ラインという国境線を

 かってに日本海へ引き、そこを越えたといって

 日本の漁船を取り締まるようになった。

 つかまった漁師は拷問などを受けた。

 昭和三十五年に日米安保条約が改正されて

 国民と国土を守ることができるようになった。

 この改正に反対したのは、ソ連や中国の共産党

 呼びかけに答えた人たちだった。

 日本の公論にソ連や中国の意向を持ち込んだのは、

 マスメディアと大学の教授、そして労働組合であった。

 国民を守るという公論が辛くも守られた成功体験である。

 気になったのは安保条約を成立させた後、

 岸信介首相はテロリストに刺されたと書いてある。

 ここでもテロリストという言葉を使うが、

 政敵を排除する暗殺と政治家の失政を問うクーデターが同じなのだ。

 政治家に危害を加える者をテロリスト。

 一般人を巻き込む地下鉄サリン事件もテロ事件。

 こんなに幅の広い言葉を使って

 二二六の軍人を貶める意図はなんなのだろうか。

 コラムでは、反米路線、北朝鮮礼賛へ態度を変えた

 新聞などを扱っている。

 

奇跡の経済復興

 昭和三十五年、所得倍増計画という政策を打ち出した。

 加熱したマスメディアと大学教授、労働組合の目をそらせるためだ。

 国民を富ませる公論が実施された成功体験である。

 コラムは、公害を扱っている。

 私の尊敬する武田邦彦教授は、公害を引き起こした企業は、

 国の基準を守っただけに過ぎないとして、

 責任をとるべきは国だったと言っている。

 私は、このときから国家というか官僚が

 責任を国民や企業へ押しつける公論とは真逆の行動を

 取るようになったと見ている。

 基準を設けた国ではなく、企業国民が詰め腹を切らされた

 失敗談である。

 

テレビの登場

 テレビ事業に参入してはいけない企業がある。

 それが新聞や雑誌だ。

 先進国では、新聞がテレビを批判し、

 テレビが新聞を批判するという健全な状況を保っている。

 日本は、そういう考えを持っていなかったのか、

 新聞とテレビが一致団結して

 報道の自由と知る権利を使いたい放題にしている。

 先見の明とまではいかないだろうが、

 メディア事態がプロパガンダ機関になることを

 警戒できなかった失敗談であろう。

 

日韓基本条約

 昭和四十年、日本と韓国は日韓基本条約を結んで国交を正常化した。

 このとき、併合時代の朝鮮人に対する保障を行うので資料を出して欲しい

 と願い出たところ、個人への保障は韓国政府が行うから、

 日本はその金を含めて一括して支払うよう回答した。

 ここで覚えて欲しいのは、朝鮮人への保障を韓国政府がすると答えたことだ。

 朝鮮人には北朝鮮の人も含まれるが、

 韓国政府は、北朝鮮への保障をしないまま、個人への保障もしないままだ。

 今ある慰安婦問題や応募工(いわゆる徴用工)問題は、

 韓国政府が個人への保障をするとした約束を破ったためだ。

 日本はやるべきことをやったが、韓国政府の怠慢を予想できず、

 また後から蒸し返して賠償の再請求という最悪の強請に至った。

 韓国との付き合い方を考える最高の見本であり、失敗談である。

 

ゾンビのように蘇る自虐史観

 ここでは具体性に欠く内容が並べられている。

 昭和四十年代に、日の丸・君が代天皇靖国神社にアレルギー反応を

 起こす人たちが現れたという。

 戦犯という言葉を遣い、愛国心を否定したというのだが、

 誰のことかさっぱりわからない。

 おそらく存命する人たちなのだろう。

 国家の歴史性を否定してしまうと、

 明治天皇の出した五ヶ条の御誓文にある公論も否定される。

 公論を否定してしまったら、国民は守られもせず、貧しくなるばかり。

 自虐史観は根深い失敗談である。

 

朝日新聞が生み出した国際問題

 国際問題とは、歴史に関わる問題である。

 「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「靖国神社参拝」は、

 朝日新聞が嘘を報じたために、日本が中国・韓国と揉めることになった。

 不利になる嘘を吐いて、相手国を有利にするというのは

 まったく理解できない神経であるが、

 この目的が日本の弱体を目指しているのなら理解できる。

 中国やソ連のために安保改正を邪魔した人間と同じなのだ。

 公論に反する愚かな行いであり、失敗談であろう。

 コラムは、天皇陛下靖国参拝について書かれている。

 なにぶん陛下への事なので推察に留まっている。

 

戦時徴用工強制労働の嘘

 在日朝鮮人在日韓国人は、強制連行されたという嘘の主張をする。

 戦時徴用として国内の工場に派遣した事実はあるが、

 日本中学生や女学生にも行われていた。

 日本の学生には給料が払われなかったが、

 朝鮮人労働者には正規の給料が支払われた。

 強制連行であれば無収入のはずである。

 戦時徴用は終戦前の七ヶ月間だけであり、

 終戦後に朝鮮へ帰国している。

 そして強制連行の嘘の極めつけは、

 昭和三十四年外務省のデータで、

 九十九・九六パーセントの在日朝鮮人・韓国人が、

 職を求めて日本にやってきたということだ。

 しかも、朝鮮戦争の時に密航してやってきたのだ。

 不法就労であって強制連行ではない。

 これを庇うマスメディアや学者の存在が失敗談であろう。

 

反日テロ活動

 中華人民共和国文化大革命で暴れた紅衛兵を真似た

 全学共闘会議と呼ばれる大学生らの行動があった。

 スローガンも全く同じで造反有理(反抗するのは正しい)であった。

 学生が公論から外れた教授や新聞に煽られたのは失敗談であろう。

 そして、ここから過激派グループが生まれ、

 極左暴力集団となりテロ活動を行った。

 テロリストは、革命派が反革命派を攻撃し、

 恐怖で反対意見を弾圧することであるから、

 この場合は、一般人を狙ったり企業を狙ったりしているため

 正しくテロと呼称している。

 これがあるから、百田尚樹が二二六事件の軍人をテロと

 呼ぶことが我慢ならない。

 一緒くたにするんじゃないよ、まったく。

 ともかく、極左暴力集団を生んだのは新聞と大学である。

 ソ連や中国の思惑通りに活動する集団が生まれたことは、

 失敗談である。

 また、それが海外へ飛び出し、世界各地でテロ事件を起こすようになった。

 日本の恥である。

 

沖縄復帰

 昭和四十七年に沖縄が返還された。

 日米安保が関係しており、ベトナム戦争へ戦力を投入する

 基地として沖縄があった。

 またソ連や中国に対して核兵器をちらつかせる必要があった。

 非核三原則を掲げる日本から撤退することで、

 この均衡が崩れる恐れがあり、

 日米安保を改正して、沖縄に引き続き米軍基地を置くことになった。

 非核三原則の問題は、アメリカの原子力潜水艦の登場で解決した。

 アメリカのベトナム戦争アメリカと中国・ソ連との関係、

 日米安保の改正と延長、原子力潜水艦の登場。

 これらが沖縄を返還させた。

 日本人の努力によるものではなかった。

 国土を取り戻せたのは、たまたまだった。

 喜ぶべき結果ではあるが、失敗談である。

 このようなたまたまは金輪際、出現することはないだろう。

 

大国のはざまで揺れる日本

 ベトナムを支援していたソ連に対抗するため、

 ソ連と対立している中国へ接近することを考える。

 そのために日本は中国と国交を回復することになり、

 天皇陛下まで担ぎ出されてしまった。

 他国の思惑のために天皇陛下を利用されるなどあってはならなかった。

 これは失敗談である。

 

「べ平連」の欺瞞

 ベトナムで戦うアメリカに反戦平和を唱えて抗議する団体、

 ベトナムに平和を!市民連合という組織がいた。

 彼らはソ連KGBから資金提供を受け、

 平和活動という隠れ蓑を活かして日本国内で

 企業を攻撃したり、成田空港建設を妨害したりした。

 これはソ連に操られた日本国民の情けない姿である。

 平和という言葉に踊らされている失敗談である。

 

オイルショック

 電力は火力発電に頼っていたため、

 節電する時期があった。

 これを気に日本では省エネルギーの技術が研究されていく。

 これは成功体験になるのではないだろうか。

 

教科書問題

 とある記者の勘違い記事から始まった。

 文科省が歴史教科書に記述された、日本軍の「侵略」を「進出」へ

 改ざんしたと騒ぎ出したのだ。

 当時の文部大臣は内政干渉だと突っぱね、

 国土庁長官も韓国の歴史にも間違いがあると指摘した。

 だが、中国と韓国が騒ぎ続け、アメリカの要望で中国と

 仲良くしないといけなかったせいか知らないが、

 文部大臣は、近隣諸国条項教科書検定へ盛り込んだ。

 このため、中国や韓国にとって都合の悪い歴史を教科書に記述するときは、

 特段に配慮をしないといけなくなった。

 これにより、新聞やテレビに加えて

 教科書までも中国や韓国、ソ連に重きを置くようになった。

 失敗談である。

 

平和ボケ

 平和ボケの証左として超法規的措置を挙げている。

 昭和五十二年にダッカ日航機ハイジャック事件が起こった。

 日本政府は、超法規的措置をもってハイジャック犯の要求を飲んだ。

 身代金を払い、拘留中の凶悪犯を解放したのだ。

 これは世界の非常識なのだ。

 犯罪者に金を払い仲間を解放すればどうなるか、

 日本の政治家はそんなこともわからなくなっていた。

 この超法規的措置を見て、日本人を拉致すれば

 身代金がふんだくれると考えた輩がおり、日本人狙いの誘拐犯が増えた。

 失敗談である。

 

終章

平成

 昭和六十四年、昭和が幕を閉じた。

 新たに平成の御代が始まった。

 皇室に牙をむき出しにする勢力がいる中で、

 御代替わりができたことが、成功体験である。

 

バブル崩壊

 平成元年の消費税、平成二年の総量規制などで

 空前の好景気は終わりを迎えた。

 景気の終わりや政策の失敗を失敗談とみるか。

 このとき失われた世代と呼ばれる人たちを放置したことを

 失敗談とみるか。

 

ソ連崩壊

 共産主義という思想の失敗が明らかになった。

 日本人のみならず人類にとっての失敗談である。

 

 

膨張する中華人民共和国

 共産主義国の中国は、平成元年に天安門事件を起こした。

 自由と民主化を望む学生を戦車でひき殺したりしたのだ。

 この恐ろしい中国は、毎年軍事費を増やしており、

 日本の自衛隊を資金と物量で圧倒している。

 また日本の領海を脅かすように平成二十二年ごろから、

 尖閣諸島の周辺へ中国海警局の船が出没している。

 これを放置すると、世界から見て尖閣諸島は中国のものとなる。

 本来なら軍隊が出動して拿捕するか撃沈するかで解決する。

 自衛権の行使を難しくしているのが、日本国憲法の九条である。

 これを目指し、平和安全保障法制や特定秘密保護法を成立させた。

 このとき反対キャンペーンをしたのが、

 未だに中国やソ連の言いなりになっている人たちだった。

 公論へ辛くも進んでいるが、妨害は多い。

 中国の侵略的な態度に対し、自衛を維持できるかどうかである。

 

狂気の北朝鮮

 核ミサイルを開発することは狂気ではない。

 弱い国が軍事的に優位に立とうとすることは当然である。

 私はむしろ核ミサイル開発を容認したアメリカが

 狂っていると思う。

 アジアの緊張は、中国と北朝鮮が核ミサイルを持ったことで

 さらに増した。

 日本はアメリカに追従していたので北朝鮮に強くでなかった。

 ミサイルを飛ばされても報復すらできない。

 報復によって軍事の均衡を保つことが平和と言えるのだが、

 日本は自ら軍事の均衡を崩し、平和を手放している。

 国民を守るという公論に反する。

 失敗談である。

 

内憂外患

 バブル崩壊後、安い人件費を求めて

 企業は工場を中国へ移した。

 企業が国民を富ますことに反した。

 経済は低迷したままだ。

 少子高齢化社会保障費が増大し、労働者が減り、

 消費税を上げるといい、外国人労働者を入れた。

 政府が国民を富ますことに反した。

 企業も政府も公論がないのだ。

 

憲法改正の動き

 憲法九条は国民を守らない。

 外国人の土地購入規制法。

 国土を外国人に買い占められることを想定していないのだ。

 日本は、土地の所有権が強いので土地を持つということは、

 領土を取られることも同じである。

 どちらも国民を守るために必要な法律である。

 今のところ、失敗談である。

 

未来へ

 平成二十年ごろからインターネットが普及し、

 公論のない新聞やテレビから解放された若者たちがいるという。

 その若者たちが、日本人の精神を復活させているという。

 五十年後の未来が復活した日本人の国であることを

 願いながら百田尚樹は締めくくった。

 

総評

 まず、この本を書くきっかけとなったのは、

 百田尚樹ケント・ギルバートとの会話である。

 そこで、日本を好きになる歴史教科書が書きたいということになった。

 ところが、編集の有本香と日本の歴史教科書を調べるにつれ、

 自虐史観への対抗心が沸き上がったのだと思われる。

 百田尚樹がぜひ読んでくれと勧める、

 十一章から終章までの流れは、WGIPに洗脳された

 大人達へのあからさまな敵意があった。

 これを読んで日本人を好きになるだろうか。

 私は途中から日本人の情けない部分に辟易し、

 とてもではないが好きになるというコンセプトを

 保っているようには思えなくなった。

 歴史の事実だからと言い訳もできよう。

 ただ、その時代時代で反論し、抵抗した大人はいなかったとも

 取れるような抜き出し方だった。

 自虐史観の教科書に対抗するあまり、誇り高い日本人を書かなかった。

 私が当初期待したのは、そういう自虐史観に埋もれた

 勇気ある日本人の姿だった。

 正直、期待はずれだったし、裏切られたような気分だった。

 若者に期待するのはいい。

 でも、その若者を生んだ親はどうなのだ。

 その親の親はどうなのだ。

 鳶が鷹を生むわけでもあるまいに。

 私なりに日本国紀をどう活かそうかと考えた結果、

 公論で列挙された歴史を分類するという作業だった。

 失敗談だらけの列挙で、この歴史を好きになるだろうか。

 日本人の精神とやらが、一度でもなくなったのなら

 すべての若者はWGIPの申し子である。

 おそらく日本人のすべてがWGIPに洗脳されたわけではない。

 それを認識して洗脳されないように不断の努力がなされてきた。

 日本人の精神を繋ぎ止めてきた人がいるはずなのだ。

 私は、百田尚樹の日本国紀にそれが書いてあることを望みすぎていた。

 

書評『公募ガイド 2019年5月号』

昨日発売の公募ガイド2019年5月号を購読した。

今月は『登場人物に命を吹き込む』だ。

登場人物・キャラクターの作り方がメインとなっている。

公募ガイド 2019年 05 月号 [雑誌]

公募ガイド 2019年 05 月号 [雑誌]

 

 

キャラクター創作術

藤咲あゆな先生によるキャラクターの作り方が紹介されている。

実践済みの貴重な内容だが、引用は避けたい。

気になる方はご自身で確認していただきたい。

01 ジャンル別人物造形

ジャンルとは、

絵本・童話・児童書・ライトノベルライト文芸

ミステリー・歴史小説・時代小説・SF

ノンジャンル・純文学

と大別されている。

それで主要なキャラクター、

主人公のキャラ立ちをどうするか書かれている。

『ストーリー先行の落とし穴』というコラムも面白い。

02 人物造形の基本 以前紹介した方が詳しい

性格・人格のピックアップやストーリー必須項目は、

以前に紹介した公募ガイドの方が詳しい。
gayu-1tetsu.hatenablog.com

今月号はやたらとキャラの履歴を作ることを勧める。

私の実体験では、邪魔になることが多く作り込むのは無駄に思う。

キャラクターありきなら理解できるのだが。

プロットを考えてから、キャラクターを配するのであればどうだろう。

執筆する人の判断に任せたい。

ただ、キャラを立たせる鉄則は要所で挟める内容となっている。

これは活用していきたい。

03 人物の履歴を作ろう

登場人物の履歴を作ることは、

キャラクター文芸で採用されているとのこと。

小説用の履歴書が掲載されている。

荒木飛呂彦の漫画術』が出典だ。

これをベースにアレンジしても良いと書いてあった。

作っておけばキャラかぶりを避けることができる。

とあるが、私はキャラかぶりを怖れない。

人間の集団は良くできていて、

優秀な人物だけを集めたのに、なぜかサボる人が出てくるという。

アリでもハチでもそうなのだ。

人間も集団であればその中で役割が決まる。

集団の中の役割と本来の自分との乖離に苦しむのだと、

私は考えている。

群れの中に善悪の正規分布があるという、

尊敬する武田邦彦先生の意見に私は賛同する。

04 性格をどう表現するか

ここで注目すべきは、読者の記憶に残るキャラクターの書き方である。

記憶に残りやすい文章というものがあるのだ。

ここは必読であると思う。

05 キャラクターの強弱

キャラクターを立てるかどうかの話に似ているかと思いきや違う。

ここで読むべきは、バランスである。

キャラクター・ストーリー・テーマ・世界観。

この四つのバランスを保つためのキャラクターの強弱である。

一読の価値はあると思う。

06 脳科学的キャラクター造形

諏訪東京理科大学情報応用工学科、篠原菊紀教授による

脳科学によるキャラクター造形がインタビュー形式で掲載されている。

私はここが一番面白かった。

性格心理学という、私が追求している普遍性の話だった。

どこの国でも、どの地域でも、どの時代にも出てくる

因子だというのだ。

また、気質の組み合わせで相乗効果があることもわかった。

有益だったのは、人の脳の短期記憶容量である。

読者が何人までの登場人物を覚えられるか、

作者なら頭に入れておきたいところだ。

まとめ

登場人物を考えることは、

読者の記憶になにが残るかを考えることだと思えた。

今回も公募ガイドで創作論を大いに刺激された。

蛇足 Vtuberになってみた


【雑談】小説のこととか【公募ガイド】

書評『恋愛論』坂口安吾

お題「恋バナ」

以前、私の恋愛観を書いた。

 

gayu-1tetsu.hatenablog.com

それからしばらく経って、百田尚樹の『日本国紀』を読んだ。 

 

日本国紀

日本国紀

 

日本国紀の書評はいずれするとして、

この本は戦後の日本人を激励する最新の本である。

では、戦後の日本人を激励した最初の本はなんであるか。

私は、坂口安吾の『堕落論』であると思う。

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

 

今日は、この堕落論に収録された『恋愛論』を

書評したいと思う。

恋と愛について

 日本語では、恋と、愛という語がある。いくらかニュアンスがちがうようだ。あるいは二つをずいぶん違ったように解したり感じたりしている人もあるだろう。外国では(私の知るヨーロッパの二三の国では)愛も恋も同じで、人を愛すという同じ言葉で物を愛すという。日本では、人を愛し、人を恋しもするが、通例物を恋すとはいわない。まれに、そういう時は、愛すと違った意味、もう少し強烈な、狂的な力がこめられているような感じである。

おそらくLoveについて述べているのだと思う。

以前に書いた恋愛観で、私もLoveの誤訳について書いた。

明治の文豪が恋愛という言葉を発明し、

それはキリスト教風の愛を誤訳したものであると。

宣教師の本気

 昔、切支丹が初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、皆一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家の御法度で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものにきめられていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども愛は不義に連なるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、大切という言葉だ。すなわち「神のご大切」「キリシトのご大切」と称し、余は汝を愛す、というのを、余は汝を大切に思う、と訳したのである。

これにはびっくりした。

かつて来日した宣教師は、日本の大御心を見抜いたのだ。

大御心に近づけるために、ご大切という言葉に訳したのだ。

明治の文豪よりも言葉の感覚がするどいのだ。

彼らがキリスト教の布教に掛ける情熱が本物であると思った。

それほどまでに土着の言葉にキリストの愛を近づけるとは。

キリスト教が日本でよく普及しなかったものだと

うすら寒くなった。

明治への苦言

 日本の言葉は明治以来、外来文化に合わせて間に合わせた言葉が多いせいか、言葉の意味と、それがわれわれの日常に慣用される言葉のイノチがまちまちであったり、同義語が多様でその各々に靄が掛かっているような境界線の不明確な言葉が多い。これを称して言葉の国と言うべきか、われわれの文化がそこから御利益を受けているか、私は大いに疑っている。

明治期の外国語の消化に疑問を持っている。

私は外国語を翻訳するなんて学生以来していない。

カタカナのまま読んで意味すらわからないまま忘れる。

もはや外国語を日本語へ直す気にならないのだ。

カタカナの知識が一部の人間の飯の種であるからか、

有権者を困惑させるだけの政治家の言葉であるからか、

どちらにせよカタカナをいちいち気にしてないのが、

正直なところ。面倒くせえのである。

言霊への苦言

すなわち、たった一語の使い分けによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見逃してしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにきわめて自在豊穣な心情的沃野を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持ちになっているだけの、原子詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきわう国に、文化の借り衣装をしているようなものだ。

ここで坂口安吾がなにを言いたいのかと言うと、

恋愛という言葉が恋愛をとらえていないということだ。

恋愛という言葉で恋愛を知ったような気になるのは、

恋愛という言葉がわかったような気にさせるからである。

私も恋愛という言葉を放置してきたから納得できる。

アンチ恋歌

 私はいったいに万葉集古今集の恋歌などを、真情が素朴純粋に吐露されているというので、高度の文学のように思う人々、そういう素朴な思想が嫌いである。

 極端に言えば、あのような恋歌は、動物の本能の叫び、犬や猫がその愛情によって吠え鳴くことと同断で、それが言葉によって表現されているだけのことではないか。

だからわざわざ書く必要もない詩であり、高度な文学ではない。

という意見らしい。

ここから坂口安吾恋愛論の本題へ入る。

 私たちが、恋愛について、考えたり小説を書いたりする意味は、こういう原始的な(不変な)心情のあたりまえの姿をつきとめようなどということではない。

 人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題が始まるのである。

まず前段が私には突き刺さる。

三島由紀夫の創作論に従い、

普遍性を求めて文章やプロットを考えているからだ。

そうすることによって共感と読みやすさを得られると

考えたからだ。

後段は、人生に対する努力の足跡が文化であり、

恋愛に対する努力の足跡も文化になり、

架空の世界でそれらを思考することが小説である。

私はそのように受け止めた。

 私たちの小説が、ギリシャの昔から性懲りもなく恋愛を堂々めぐりしているのも、個性が個性自身の解決をする以外に手がないからで、何か、万人に適した規則が有って恋愛を割りきることができるなら、小説などは書く要もなく、また、小説の存する意味もないのである。

 しかし、恋愛には規則はないとはいうものの、実は、ある種の規則が有る。それは常識というものだ。または、因習というものである。この規則によって心のみたされず、その偽りに服しきれない魂が、いわば小説を生む魂でもあるのだから、小説の精神は常に現世に反逆的なものであり、よりよきなにかを探しているものなのである。しかし、それは作家の側からのいい分であり、常識の側からいえば、文学は常に良俗に反するものだ、ということになる。 

恋愛と小説を同じように論じている。

三島由紀夫をして、

未だに小説が確立されていないと言わしめるのに似ている。

恋愛が環境と個性によって解決の筋道が違うように、

小説もまた同じなのだ。

坂口安吾の結論

 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、満たされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花ない。

小説は慰めなのだろうか。

人生に慰めは必須なのだろうか。

坂口安吾の文字を追っているとそのように考える。

十人十色とは恋模様然り、人生然り、小説然り。

めいめいの努力の足跡は文化になるらしい。

恋の文化と愛の文化の二つがあると思う。

恋愛小説はその二つに分かれるかもしれない。

そして、恋愛小説は恋愛に苦しむ読者を慰める。

小説の役割を明確にされた思いだ。

それにしても坂口安吾の言葉に触れるのは小説よりも面白い。

たぶん、彼の努力の足跡だからだ。

彼の言葉に触れたいと思ったら、手にとってみるといい。

 

書評『公募ガイド』小説の役に立つオススメ号を紹介

お題「愛用しているもの」

 小説を書いてなにか賞に応募しようと思うと、

ネットで調べるより『公募ガイド』を見た方が早かったりする。

 

公募ガイド 2018年 06 月号 [雑誌]

公募ガイド 2018年 06 月号 [雑誌]

 
公募ガイド 2016年 10 月号 [雑誌]

公募ガイド 2016年 10 月号 [雑誌]

 

 上記の二つは、私が小説を書くのに重宝している号である。

 公募ガイド2018年6月号

今すぐ直せる! うまくなった気になる!

文章の30の基本      22ページより

と表題があるとおり、

商業レベルの文章にするための基本を知ることができる。

私が購入を決めたのは「07文末に変化を」

を立ち読みしたからだ。

現代文の文末には「だ」「た」ぐらいしかないので、同じ語尾がいくつも続くようなら注意。(中略)現在形にしたくなるが、安易に現在形を使うと素人くさくなる。

私は文末を現在形で書いていた。

ここで初めて現在形がいかんのだと知った。

こんなのどこで習うんだよとかキレかけながらレジへ向かった。

このような業界の基本が30ほど列挙されている。

小説の作法が気になる人にオススメである。

公募ガイド2016年10月号

私は2015年4月に小説を書くと決めた。

それから1年かけて

処女作『スターバード・ビュー』を書き上げた。

働きながら毎日チマチマ書いていた。

あとにも先にもあれだけ熱中したことはなかった。

どんなに疲れてても続きが書きたくてしかたなかった。

ようやく小説を書き上げる自信がついた頃に

この公募ガイドに出会った。

見所は、11ページから23ぺージまでの

スタートラインの数々である。

次の物語がモヤモヤとして困っているときは

このうちのどれかから書き始めることができる。

1 物語の設定を考える 11ページ

テーマ・ログライン・シノプシス

私はテーマだけしか知らなかった。

ここでは、モヤモヤへの問いかけがたくさんある。

物語の形をはっきりさせたい人はここからだ。

2 物語には型がある 12ページ

物語の型は一つしかない

「行って帰ってくる話」

まず冒頭の見出しで衝撃を受ける。

物語は無数にあると思っていたからだ。

すべての物語は、

行って帰ってくる話でまとめられてしまうのだ。

縦軸横軸のグラフに

Y二乗イコールマイナスaX

の放物線で説明してくれる。

3 キャラクターと機能 14ページ

キャラクターの相関関係を述べている。

主要キャラクターとサブキャラクターの

書き分けが説明されている。

性格は三つ組み合わせると

ステレオタイプでなくなる

これと三十の性格、それの出典

 

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)

人さまざま (岩波文庫 青 609-1)

 

 を紹介してくれるのは地味に嬉しい。

 

4 物語の文法を学ぶ 16ページ

三大物語論なるものを紹介している。

 

昔話の形態学 (叢書 記号学的実践)

昔話の形態学 (叢書 記号学的実践)

 
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術

物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術

 

 これらの論を並列した表が優秀である。

5 ストーリーメイク実習 18ページ

物語の文法の使い方の実践を二人分例示してある。

どのように物語を組み立てるのか参考になる。

6小説を書くテクニック 20ページ

書く前に決めておくこと、枚数と人称と視点

小説の文章は、会話と説明と描写でできている

説明せず、五感で描写し、視線の移動をスムーズに

情景をつぶさに見る眼と全体を俯瞰してみる眼

テーマで統合されているか、テーマは感じられるか

五つの見出しはどれも耳に痛い。

好き勝手に書きたい性分だからだ。

独りよがりの小説にしないためにも

常に意識したいことばかりである。

ストーリー作成シート 22ページ

この号の最大の目玉である。

私はこれをパソコンに入力し、

書く前の儀式として使用している。

主人公の視点に立って物語を見ていく表となっている。

主人公の視点に立つことは読者の視点に立つことなのだ。

おわりに

いかがでしたか、

なんて書くのはいかにもブログっぽくて嫌なのだが、

これだけは小説を書くのにオススメできるので紹介した。

桜の季節がやっときた

今週のお題「桜」

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sakura

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sakura station

山梨の東部はなかなか暖かくならないので、

いつも桜の開花がずれているような気がする。

今年は、なかなか良いタイミングで咲いたのではないか。

桜というと日本人の心の花になっていて、

かくいう私も小説の中で取り扱ったことがある。

このスターバード・ビューに登場するヒロインは、

桜を嫌っているのだ。

それが主人公と心を通わせるうちに、

桜というものを好きになろうとする場面がある。

桜を嫌う理由は、

繊細なのに強烈な儚さを持っているからだ。

死や滅びの印象に怯えるのは不思議なことだろうか。

むしろ一般的だと思う。

死や滅びの印象を乗り越えられるのは、

それが春という季節と結びついているからだと考えられる。

もし桜と春が切り離されていたら、

日本人は桜を好きにならなかったのではないか。

カメラを片手に、今日はそんなことを考えた。

 

書評『天皇は本当にただの象徴に落ちたのか』竹田恒泰

実はよく知らない天皇という存在

恥ずかしながら、私が天皇を意識し始めたのは

フランスへ語学留学したときだった。

フランス語は身に付かなかったけど、

世界で日本だけ変わってるかもしれない、

という妙な確信だけを学んで帰った。 

ホームステイ先のムッシュに、

お前の国の皇帝はなにをしてるんだと聞かれた。

電子辞書で皇帝というものを知り、

皇帝らしいことはしてないと答えた。

なにか仕事をしているだろうと聞かれて、

してないと答えた。

ムッシュは大笑いしていた。

私は、知らないと答えるべきだった。

責任転嫁させてもらえば、

天皇がなにをしているのか教えてこなかった教育のせいである。

それ以来、私は天皇陛下に後ろめたさを持っている。

一人のフランス人に間違った情報を与えてしまったからだ。

そういう経緯があり、天皇を誤解したくないという気持ちがある。

その気持ちが、この本を手に取らせた。

象徴という無職っぽさ

社会について学んだ気がしたのは中学の公民までである。

高校で世界史を専攻したため

日本のことについて思い返すと中学まで戻るのだ。

不幸なことに私の学年は荒れていて

教師を馬鹿にする馬鹿な同級生ばかりだった。

でも、今思えば日本は悪いのだと熱心に教える教師だったとわかる。

そんな教師の授業はつまらなく、苦痛でしかなかったのだ。

私は、従軍慰安婦の話でクラスがざわついたのを覚えている。

ある女子が、兵隊の相手とはなんだと冷やかしのつもりで聞いた。

セックスですと教師が答えると、男子中学生は大声を出して騒いだ。

これで授業は中断した。

これは、私の中で情けない日本人像の記憶である。

そんな先生だったからか、

天皇のことを熱をもって教えてもらったことはない。

人生で唯一公民を学ぶ機会だったのに

それから大学生まで、私の中で天皇は無職な存在だった。

宮沢俊義と八月革命説

留学のあと、歴史について学び直したとき日本国憲法無効論を知った。

現在の日本国憲法は、

GHQが作った憲法であり正当な日本の憲法ではない。

大学を卒業してから、憲法についてはそういう認識だった。

そして、本書に出会った。

本書は、宮沢俊義教授の八月革命説を

論理で突き崩すことを目的としている。

八月革命説とは、革命とある通り、

国家の元首が替わったことを意味している。

この説によると、

敗戦を機に天皇から国民へ主権が移動したというのだ。

この説の不思議なところは、

革命なのに天皇が存続していることだ。

私が世界史で学んだ革命では、

王室は滅び王族は殺されている。

そして、王室を中心とした伝統は否定されていた。

天皇が残り、伝統も残った日本の現状をふまえ、

著者の竹田恒泰は、

大日本帝国憲法からの憲法改正説の立場を取っている。

というわけで、

小難しい憲法の文章がたくさん出てくるので手強い本だった。

先に言っておくと、この本で天皇を嫌いになることはない

憲法学者を嫌いになることは保証する。

根本建前の争い

宮沢教授が元首の殺されない革命を革命と言い張るのは、

憲法改正には限界があり、

その限界とは憲法の根本建前の変更であるというのだ。

根本建前とはなにかと言うと、主権の所在と理解されている。

天皇主権から国民主権へ、

つまり神権主義から民主主義へ大転換したと言いたいのである。

政治形態の変更であるから、大転換と言えば大転換である。

神権主義の法律では民主主義を運営できないのだから当然だ。

また、天皇天皇としての正当性を持つのは神授説であり、

天皇天照大神から主権を与えられているという。

この大転換によって、

伝統の否定と伝統から切り離された天皇の死を意味するのだ。

これで一応の革命の面目を保っている。

ただ、素人から見ても

結論ありきで論を展開しているようにしか見えない

これらに対して、竹田恒泰はそもそも天皇主権であったか、

国民主権はなかったかを検証している。

天皇は権力者だったか

第二章では天皇が民主主義を無視した権力者であったかを

実務の観点から検証している。

結論は、帝国憲法成立以降、国務大臣の輔弼を必須とすることで

天皇の独断専行を防止し、民主主義が担保されていた

また拒否権についても、数少ない実例を上げて検証しており、

拒否権が行使された場合も国務大臣が交代するだけで、

天皇の自由にはならなかった。

ここで現代の日本国憲法の問題点も指摘している。

もし内閣が違法な法律の裁可を天皇へ求めたとき、

それを拒否することは

天皇主権を行使したことになるのかということだった。

民主党が大勝して、外国人参政権という憲法違反の法律を

鳩山政権が掲げていたことは記憶に新しい。

もし外国人参政権が国会で成立したとき、

今上陛下は拒否しただろうか。

国民固有の権利を侵害する法律を時の天皇が止めるというのは、

最後の砦としてあってもいいのではないかと思う。

天皇は神であったか

第三章では理念としての天皇について検証している。

帝国憲法教育勅語を起草した井上毅は、

皇祖を神武天皇、皇宗を歴代天皇としていた。

井上毅山県有朋へ手紙で

宗教っぽい言葉を避けたと書いている。

憲法勅語に神話を持ち込まず、

宗教や哲学などの争いが起きないようにした。

この内容を読んで私はすごく驚いた。

政教分離してるじゃんと思った。

井上毅は、中学の歴史で、

憲法を作った人としか紹介された記憶がない。

現代にも繋がる深い考えを持った人だった。

 

つまり、天皇統治の根拠は、神や神話ではなく、初代天皇から連綿と受け継がれてきた歴史の事実に由来するものと読むほかないであろう。このように、少なくとも帝国憲法天皇の地位の根拠が神に由来するとは記しておらず、むしろ、歴史に由来すると明記しているのである。天皇の地位の根拠を歴史の事実に求める見解は、帝国憲法下における統一された公式見解であったことを確認しておきたい。 209、210ページより

帝国憲法を作った人たちが、

神話由来ではなく歴史由来であることを徹底した。

ここに神勅を根拠にした天皇主権は成り立たない

だから根本建前の変更も起きていない

宮沢俊義教授の論拠は粉微塵になった。

民主主義はなかったのか

第三章にてもう一つ重要なことがある。

人間宣言についてだ。

人間宣言という字面だけ覚えていて、私は内容を知らない。

実は、この宣言の前に、五箇条の御誓文が挿入されているのだ。

しかも、それを命じたのは昭和天皇だった。

五箇条の御誓文は、話し合いで決めようという

まさに民主主義の宣言であった。

宮沢教授は、神権主義から民主主義へ変わったというが、

明治維新の時点で民主主義は実践されていた

昭和天皇の発言の抜粋を引用したい。

あの宣言の第一の目的は[五箇条の]御誓文でした。神格(否定)とかは二の問題でありました。当時、アメリカその他の諸外国の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治大帝のおぼしめしであり、それが五箇条の御誓文です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います。(はじめは)国民はだれでも知っていると思い、あんなに詳しく書く必要はないと思いました。当時の幣原喜重郎総理とも相談、首相がGHQマッカーサー最高司令官に示したら『こういう立派なものがあるとは』と感心、賞賛され、全文を発表してもらいたい、との強い希望がありましたので、全文を示すことになったのです。あの([いわゆる]人間宣言)は、日本の誇りを国民が忘れると具合が悪いと思いましたので、誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました。  226ページより

これも中学の時に習わなかった。

戦争が終わって、日本は民主主義になったと教わった。

大嘘を教えられていたのだ。

 

まとめ

本書は、自分の結論のために天皇を神にしたり、

五箇条の御誓文を無視する憲法学者を知ることができる。

読んでいてムカムカしてくるのは私だけだろうか。

八月革命説は、

神権主義から民主主義への転換を論拠としているが、

結論ありきの暴論であることがよくわかる内容となってい

読み所はほかにもたくさんある。

古事記日本書紀などから天皇の解説がある。

憲法に限らず、アメリカ側の動きなども書いてある。

私のような読書嫌いで一週間かかる内容だ。

私の書評で興味を持っていただけたら幸いである。

書評『小説読本』三島由紀夫

『作家を志す人々のために』

没後40年に記念出版された本の帯にそう書かれていた。

作者は三島由紀夫

手に取らないわけにはいかなかった。

 

小説読本

小説読本

 

 私が気になった項目を以下にあげます。

興味があれば読み進めてください。

44ページ プロットについて

本書より引用する。

因みに、ストーリーとプロットの差について、E・M・フォースタアが、すこぶる簡潔な定義を上げているが、フォースタアによれば、ストーリーとは、「王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた」という事実の列挙であり、プロットとは、「王が亡くなられ、それから王妃が悲しみのあまり亡くなられた」という、複数の事実の必然的連結だというのである。

 三島由紀夫の解説を引用する。

それはさておき、読者はその「知りたい」という欲求を、プロットによって、「必然」に置き換えてもらいたいという欲求を抱くにいたる。なぜ、いかに、何を知りたいか、を読者はよく知らない。読者は、小説によってそれを教えてもらいたいと望むのだ。

独学で小説を書いているとプロットという言葉にぶつかって混乱することと思う。

私はそうだった。

この解説を読んで、

プロットは話しと話しに因果関係を持たせていくということだと理解した。

49ページ 小説の条件

(一)言語に表現による最終完結性を持ち、

(二)その作品内部のすべての事象はいかほどファクトと似ていても、

   ファクトと異なる次元に属するものである。

三島由紀夫は、(一)の条件を重要視しており、

(一)がダメなら(二)も成り立たないと言っている。

つまりはリアリティがなくなるというのだ。 

ではどうすればいいのか。ヒントは一つしか出してもらえなかった。

たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。

ここから怒濤の勢いで苦言を呈するのだが、具体性がありわかりやすい。

引用するには量が多いので、気になる方は本書を手に入れて読んで欲しい。

78ページ 会話について

三島由紀夫が悩んでいた。

私は小説中の会話を、一種の必要悪と考えて諦めることにしている。

地の文を洗練し、物語がクライマックスで騒ぎ出そうとも

作者として冷静であることに努めれば努めるほどに

登場人物の会話が滑稽に見えると言うのだ。

どんなに深刻な会話であっても、地の文に比べれば、魂の重味が軽いような気がするのは、私が単に日本人であるためかもしれない。会話にはどうしても浮薄な性質が抜けきれぬように感じられるのは、一番重要なことは口に出して語らないという我が文化伝統のせいかもしれない。

 ヒントになりそうな一文をさらに引用しておく。

私は手綱を引き締め、会話の一つ一つのリアリティーの裏附けのため、顔の表情や心理の動きや情景描写を点綴する。

日本の文化伝統の染みついた三島由紀夫が、言霊、

言葉のことをあえて言霊と言わせてもらうが、

言霊の視覚化に苦心していたように思う。

会話といえばいかにも軽くて他愛ないものに思えるが、

言霊と書くと重みと抽象性が増して人物や環境よりも

描写の難しい存在に感じられる。

私は三島由紀夫の悩みとはこの部分ではないかと思った。

106ページ 小説家と犯罪

 三島由紀夫が考える作家としての基本を引用しておく。

法律や世間の道徳がどうしても容認せず、又もし弁護しようにも所与の社会に弁護の倫理的根拠の見出せぬような場合に、多数をたのまず、輿論をたのまず、小説家が一人で出て行って、それらの処理によって必ず取り落とされることになる人間性の重要な側面を救出するために、別種の現実世界に仮構をしつらえて、そこで小説を成立させようとするものであった。

新聞やニュースで説明される人物像が嘘であると、

小説だけが真の人間性を発見できるという話しだと読み取った。 

これを性善説性悪説を交えて解説をしてくれる。

また小説の逃げ道になるとのことだ。

もし性悪説が正しいなら、どんなに凶悪な犯罪も、われわれ自身の共通の人間性の繁栄に他ならないが、もし又性善説が正しいなら、機械的に犯人とわれわれは同じ出発点に立ち、われわれのほうがいくらか運が良かったと言うだけのことになる。

遺伝子解析が終わった現在では、

おそらく性善説は存在し、かつ性悪説もまた存在する。

人間性とは遺伝子情報の羅列で説明できてしまうのだろうか。

現代の作家のテーマの一つであると思う。

136ページ 文体

私は個性が文体だと勘違いしていた。

三島由紀夫にずばり否定されてしまった。

文体は普遍的であり、文章は個性的である。文体は理念的であり、文章は体質的である。

 未だに私の文体とはこれだと言い得ることはできないのだが、

三島由紀夫の解説を読めば読むほどわからなくなるというのが正直なところだ。

浅草のお好み焼き屋の描写にだけ妥当するのは文章にすぎず、文体はもちろんそういうものをも描きうるのみならず、大工場でも政府の閣議でも北極の大航海でも、あらゆるものを描き、あらゆるものに妥当する。

普遍性があって理念があれば、あらゆるものを描ける。

ではどうやって文体を獲得するのか。

言葉のそれぞれの比重、音のひびき、象形文字の視覚的効果、スピードの緩急、・・・・・・こういう感覚を生れつき持った人が、訓練に訓練を重ねて、ようやく自分の文体を持ち、はじめて小説を書くべきなのである。

もはや救いがなかった。

感覚はどうやったら判別できるのか。

感覚がなかったら訓練しても意味はないのか。

書き続けることを不安にさせられた。

ある象徴的ではあるが、同時に視覚的な一場面が浮かんでくると、それは視覚的でありながら、音楽的な感動を私によびおこす。私はその音楽を咀嚼する。その間に、おそらくその小説の文体が決定されてくるのだ。というと、小説家は、自分の書く小説のそれぞれに文体を変えうるように誤解されるかもしれないが、われわれが自分の肉体を抜け出せないように、文体も個性から完全に離脱することは不可能である。不可能ではあるが、小説家は別に創造の自由の自覚を持っていて、さほど自分の限界を気にかけない。

小説全般で共通するように言いながら、小説ごとに文体が決まると言う。

個性的なものではないと言っておきながら、個性から脱しないと言う。

文体に関する解説は、混乱するばかりである。

長編小説では、作者自身のためにも読者のためにも、緊張した場面の後に多く息抜きの場面が作られる。そういうとき、息抜きの場面をしっかりと保持するものは、文体の力に他ならない。文の各細部は緩急強弱の様々なニュアンスを持つけれど、文体はあらゆる細部にわたって、同じ質を維持しなければならない。

もう遺伝子解析で文体を明らかにしてくれと匙を投げたくなった。

文体とはプロットであり、普遍性のある読みやすさであり、

作者の理念で書かれた小説である。

正直、未熟ゆえに手に余る内容だった。

156ページ 主題・環境・構成・書く

 勝手に三島流創作術と呼んでいる。

第一に主題を発見すること。

(中略)

私はしかし、その主題を曖昧な未発見の形のままにしておいて、直ちに制作にとりかかるということはほとんどない。まずその材料を吟味し、ふるいにかけ、エッセンスを抽出しようと骨折る。そして自分が無意識にそれに惹かれていた気持ちを徹底的に分析して、まずすべてを意識の光の下へ引きずり出す。材料を具体性から引き離し、抽象性にまで煮詰めてしまう。

(中略)

その過程で、自分がどうしてもその抽象化された主題に同一化することができなければ制作を放棄する他はない。

自分と同一化できるとあるから、主題とはおそらく人間性を指しているのだと思う。

根拠は、犯罪者への共感から小説を書けると述べていたからだ。

第二に環境を研究すること。

(中略)

小説がフィクショナルなのは正にこの点であって、(自然主義小説もこの点では全くフィクショナルなのだが)、実際の生活人にあっては鈍磨している環境の描写を精密にして、読者がその環境描写を通じて、登場人物への感情移入ができるように、手助けしてやらねばならない。

(中略)

小説は、新鮮な印象と鈍磨した生活感覚とを、何とか上手く縫い合わせ、配合させて、そこに現実よりも強烈な現実を作り出さなければならない。

 三島流のリアリティである。

第三に構成を立てること。

これはかなり機械的な作業で、最初に細部にいたるまで構成がきちんと決ることはありえず、しかも小説の制作の過程では、細部が、それまで眠っていたある大きなものを目覚めさせ、それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。

(中略)

それをむりに構成しようとする努力は、多くは徒労に終わり、大ざっぱに序破急を決め、大きな波形を想定しておく程度にしておいたほうがよい。

 文体の一部であるプロットの出番だ。

この時点で作家の個性・体質と理念・普遍性がせめぎ合いを起こすと思われる。

第四に書きはじめること。

(中略)

ここへ来てはもう方法論もクソもない。私は細部と格闘し、言葉と戦って、一行一行を進めるほかはない。そして物語の展開に行き詰まったとき、いつも私を助けるのは、あの詳細なノオトに書き付けられた、文字による風景のスケッチである。

環境の研究で三島由紀夫はノートを作っている。

筆が止まったときはそれを見ると良いらしい。

168ページ 三島由紀夫の問題

むしろ小説というジャンルを限定する作業が私にとっての最大の問題である。このジャンルは厳密な意識的な技術的条件を持たぬために、技術の安定を欠き、本質的な自由を失い、芸術としての自立性を欠いているのである。小説はしたがって、詩よりも造形美術よりも音楽よりもはるかに小さなジャンルである。この小さなジャンルの厳密な計量に基づいて、小説の技術的条件が発見されなければならない。つまり誰もがそこを通れる門、しかもそこを通ることによって明瞭な芸術性の弁別がなされる門が開かれねばならない。

(中略)

この小説の技術的条件は、さらに言葉の――国語の――吟味の上に成立つ。私にはまだそれがどういうものになるか予見することはできない。 

私は、国語の授業で小説を取り扱い、明瞭な芸術性を教えられた記憶がない。

というか芸術性とはなんであろう。

著作権では、「思想又は感情を創作的に表現したもの」とあり、

芸術性ではなく独自性を根本としている。

文体が独自性をもっているのだから妥当だと思う。

だが、法律では芸術性を判断できない。

美しければ善で醜ければ悪、にはならないからだ。

芸術性とは、三島由紀夫の考える理念や普遍性ということになるのだろうか。

理念はともかく、普遍性のある文章はあるのだろうか。

もともと日本語に文字はない。

音だけが日本語なのだ。

漢字を取り込んで平仮名と片仮名に崩した。

漢文の文法ではなく日本語の文法で文章を書くようになった。

美しい日本語とは美しいやまと言葉、言霊ということになるのだろうか。

文字である以上、小説は日本語の美しさを追求できない可能性がある。

私が思うに、誰もが小説を書ける技術的条件の一つは、

人間性の濃縮された普遍性のある日本の言葉であろう。

もちろん、その言葉に到達するまでの構成を作れる技量が必要である。

まとめ

本書は三島由紀夫の創作に対する思想が凝縮されている。

様々な著作を例に出して解説している。

私が抜き出したのは一部にすぎない。

面白かったのは、文体の推移の解説である。

尊敬する作家の影響を受けていると自分で解説しているのだ。

興味を持っていただけたら手に入れて一読されたし。