書評『恋愛論』坂口安吾
以前、私の恋愛観を書いた。
日本国紀の書評はいずれするとして、
この本は戦後の日本人を激励する最新の本である。
では、戦後の日本人を激励した最初の本はなんであるか。
書評したいと思う。
恋と愛について
日本語では、恋と、愛という語がある。いくらかニュアンスがちがうようだ。あるいは二つをずいぶん違ったように解したり感じたりしている人もあるだろう。外国では(私の知るヨーロッパの二三の国では)愛も恋も同じで、人を愛すという同じ言葉で物を愛すという。日本では、人を愛し、人を恋しもするが、通例物を恋すとはいわない。まれに、そういう時は、愛すと違った意味、もう少し強烈な、狂的な力がこめられているような感じである。
おそらくLoveについて述べているのだと思う。
以前に書いた恋愛観で、私もLoveの誤訳について書いた。
明治の文豪が恋愛という言葉を発明し、
それはキリスト教風の愛を誤訳したものであると。
宣教師の本気
昔、切支丹が初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、皆一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家の御法度で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものにきめられていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども愛は不義に連なるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、大切という言葉だ。すなわち「神のご大切」「キリシトのご大切」と称し、余は汝を愛す、というのを、余は汝を大切に思う、と訳したのである。
これにはびっくりした。
かつて来日した宣教師は、日本の大御心を見抜いたのだ。
大御心に近づけるために、ご大切という言葉に訳したのだ。
明治の文豪よりも言葉の感覚がするどいのだ。
彼らがキリスト教の布教に掛ける情熱が本物であると思った。
それほどまでに土着の言葉にキリストの愛を近づけるとは。
キリスト教が日本でよく普及しなかったものだと
うすら寒くなった。
明治への苦言
日本の言葉は明治以来、外来文化に合わせて間に合わせた言葉が多いせいか、言葉の意味と、それがわれわれの日常に慣用される言葉のイノチがまちまちであったり、同義語が多様でその各々に靄が掛かっているような境界線の不明確な言葉が多い。これを称して言葉の国と言うべきか、われわれの文化がそこから御利益を受けているか、私は大いに疑っている。
明治期の外国語の消化に疑問を持っている。
私は外国語を翻訳するなんて学生以来していない。
カタカナのまま読んで意味すらわからないまま忘れる。
もはや外国語を日本語へ直す気にならないのだ。
カタカナの知識が一部の人間の飯の種であるからか、
有権者を困惑させるだけの政治家の言葉であるからか、
どちらにせよカタカナをいちいち気にしてないのが、
正直なところ。面倒くせえのである。
言霊への苦言
すなわち、たった一語の使い分けによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見逃してしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにきわめて自在豊穣な心情的沃野を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持ちになっているだけの、原子詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきわう国に、文化の借り衣装をしているようなものだ。
ここで坂口安吾がなにを言いたいのかと言うと、
恋愛という言葉が恋愛をとらえていないということだ。
恋愛という言葉で恋愛を知ったような気になるのは、
恋愛という言葉がわかったような気にさせるからである。
私も恋愛という言葉を放置してきたから納得できる。
アンチ恋歌
私はいったいに万葉集、古今集の恋歌などを、真情が素朴純粋に吐露されているというので、高度の文学のように思う人々、そういう素朴な思想が嫌いである。
極端に言えば、あのような恋歌は、動物の本能の叫び、犬や猫がその愛情によって吠え鳴くことと同断で、それが言葉によって表現されているだけのことではないか。
だからわざわざ書く必要もない詩であり、高度な文学ではない。
という意見らしい。
私たちが、恋愛について、考えたり小説を書いたりする意味は、こういう原始的な(不変な)心情のあたりまえの姿をつきとめようなどということではない。
人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題が始まるのである。
まず前段が私には突き刺さる。
三島由紀夫の創作論に従い、
普遍性を求めて文章やプロットを考えているからだ。
そうすることによって共感と読みやすさを得られると
考えたからだ。
後段は、人生に対する努力の足跡が文化であり、
恋愛に対する努力の足跡も文化になり、
架空の世界でそれらを思考することが小説である。
私はそのように受け止めた。
私たちの小説が、ギリシャの昔から性懲りもなく恋愛を堂々めぐりしているのも、個性が個性自身の解決をする以外に手がないからで、何か、万人に適した規則が有って恋愛を割りきることができるなら、小説などは書く要もなく、また、小説の存する意味もないのである。
しかし、恋愛には規則はないとはいうものの、実は、ある種の規則が有る。それは常識というものだ。または、因習というものである。この規則によって心のみたされず、その偽りに服しきれない魂が、いわば小説を生む魂でもあるのだから、小説の精神は常に現世に反逆的なものであり、よりよきなにかを探しているものなのである。しかし、それは作家の側からのいい分であり、常識の側からいえば、文学は常に良俗に反するものだ、ということになる。
恋愛と小説を同じように論じている。
三島由紀夫をして、
未だに小説が確立されていないと言わしめるのに似ている。
恋愛が環境と個性によって解決の筋道が違うように、
小説もまた同じなのだ。
坂口安吾の結論
人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、満たされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花ない。
小説は慰めなのだろうか。
人生に慰めは必須なのだろうか。
坂口安吾の文字を追っているとそのように考える。
十人十色とは恋模様然り、人生然り、小説然り。
めいめいの努力の足跡は文化になるらしい。
恋の文化と愛の文化の二つがあると思う。
恋愛小説はその二つに分かれるかもしれない。
そして、恋愛小説は恋愛に苦しむ読者を慰める。
小説の役割を明確にされた思いだ。
それにしても坂口安吾の言葉に触れるのは小説よりも面白い。
たぶん、彼の努力の足跡だからだ。
彼の言葉に触れたいと思ったら、手にとってみるといい。