恋愛はする必要なし

私が『第一志望、AV女優』を書いたきっかけの一つに、

恋愛というものが明治以来の偽物であると知ったことがある。

 

恋愛の起源―明治の愛を読み解く

恋愛の起源―明治の愛を読み解く

 

 この本によると、明治に恋愛という熟語が生まれた。

その前に愛という言葉の意味が変わったというのだ。

キリスト教に影響を受けた明治の文豪たちが、

愛という言葉にキリスト教風の意味を付け加えた。

ここからは持論を含む。

キリスト教風の意味とは、キリストの前で宣言する愛のことである。

病める時も健やかなる時も、と始まる宣言である。

神が引き合わせた運命の相手に尽くせ、そうすれば幸せだという内容である。

この無償の愛が、幸せを約束された運命の相手がいると文豪たちに錯覚させた。

また、そのような女性との結婚生活で魅了した。

こうなってしまうと、明治の文豪は十字軍になってしまうのだ。

彼らは敵を必要とした。運命の女性のために障害となる悪魔を作り出したのだ。

それが遊女である。

江戸時代において色恋は遊女とするものであって、家にはつまらない嫁さんがいた。

美しく手に入れたい女性は遊女だった。

それを覆そうとしたのがキリスト教に影響受けた明治の文豪なのだ。

遊女のような玄人ではなく、素人の女性を運命の女性に仕立て上げようとした。

聡明で才気にあふれる素人の女性を作り上げた。

遊女から聡明さと技芸を取り上げて素人女性にくっつけただけなのだ。

文豪の技か一般大衆は、架空のヒロインこそ理想と考えるようになった。

また、見合いも蔑視された。

自由な恋愛からの結婚こそ正当な結婚であるかのように描かれた。

遊女の色恋とキリスト教風の愛、それをくっつけて恋愛が生まれたのだ。

ここから書籍を離れる。

恋愛が偽物であると知った私は、本来の、日本風の愛とはなにか気になった。

気になったというのも調べて答えを見つけようとは思わなかった。

小説を書くことで答えが見つかると思ったからだ。

だが、幸か不幸か私は知識に巡り合う運が良いらしく、答えの動画に出会った。

あいにくとその動画は、

悪意あるBAN祭りとやらでYOUTUBE上からなくなってしまった。

動画のタイトルも忘れてしまったが、

憲法学者にしてラーメン屋の竹田恒存さんの動画だった。

内容はもっとうろ覚えだったが、大御心という言葉を初めて聞いた。

以下の内容と同じだと思う。

www.hokkaidojingu.or.jp

それがなにやら天皇の上にある概念であるという話だったと記憶している。

その話を聞いて、キリスト教風の愛がキリストから生まれたことと符合した。

そうか日本風の愛とは大御心だったのかと気づいた。

私の小説では、そういう流れが刻まれている。

ここから少し科学の話になる。

恋愛の正体は、神経伝達物質であるドーパミンである。

こう言ってしまうと恋愛小説の仕事は、ドーパミンの過剰分泌を描写すれば終わる。

このドーパミンが分泌される時期は決まっており、

一度分泌されたら三か月で切れてしまう。

しかも、このドーパミンの分泌は思春期以降一度だけとなっている。

人間は、この三か月の間に依存症になる。

ドーパミンは、脳内麻薬と言われる物質だ。

この状態で特定の異性に対して快楽神経を異常に刺激されるのだ。

快楽を欲する神経は、それを邪魔する言葉に耳を貸さない。

いわゆる恋の盲目状態である。まさに運命の相手に見えているのだ。

ドーパミンが切れた人間はどうなるのか。

ドーパミンのもたらした快楽やときめきを求めるようになるのだ。

いわゆる禁断症状である。

ドーパミンに見せられた異性へのときめきを取り戻そうと恋愛に走る。

このときめきこそ、明治の文豪が誤認したキリスト教風の愛であると思う。

恋愛はする必要なしというタイトルにしたのはなぜか。

偽物であるからだ。

恋愛というのは思春期の一時のものであって幸せを約束するものではない。

私は作家として人間の幸せを考えるとき、どうしても恋愛に引っ張られる。

小説や映画、ドラマで散々にすり込まれてきたからだ。

現代の小説や映画、ドラマの下敷きに明治の文豪の勘違いがある。

私はそこから抜け出したい。

本来の日本風の愛、大御心を取り戻したい。

親殺し、子殺しの取りざたされる日本社会に流布すべきものと考えている。