書評『小説読本』三島由紀夫

『作家を志す人々のために』

没後40年に記念出版された本の帯にそう書かれていた。

作者は三島由紀夫

手に取らないわけにはいかなかった。

 

小説読本

小説読本

 

 私が気になった項目を以下にあげます。

興味があれば読み進めてください。

44ページ プロットについて

本書より引用する。

因みに、ストーリーとプロットの差について、E・M・フォースタアが、すこぶる簡潔な定義を上げているが、フォースタアによれば、ストーリーとは、「王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた」という事実の列挙であり、プロットとは、「王が亡くなられ、それから王妃が悲しみのあまり亡くなられた」という、複数の事実の必然的連結だというのである。

 三島由紀夫の解説を引用する。

それはさておき、読者はその「知りたい」という欲求を、プロットによって、「必然」に置き換えてもらいたいという欲求を抱くにいたる。なぜ、いかに、何を知りたいか、を読者はよく知らない。読者は、小説によってそれを教えてもらいたいと望むのだ。

独学で小説を書いているとプロットという言葉にぶつかって混乱することと思う。

私はそうだった。

この解説を読んで、

プロットは話しと話しに因果関係を持たせていくということだと理解した。

49ページ 小説の条件

(一)言語に表現による最終完結性を持ち、

(二)その作品内部のすべての事象はいかほどファクトと似ていても、

   ファクトと異なる次元に属するものである。

三島由紀夫は、(一)の条件を重要視しており、

(一)がダメなら(二)も成り立たないと言っている。

つまりはリアリティがなくなるというのだ。 

ではどうすればいいのか。ヒントは一つしか出してもらえなかった。

たとえば、物には名がある。名には、伝統と生活、文化の実質がこもっている。

ここから怒濤の勢いで苦言を呈するのだが、具体性がありわかりやすい。

引用するには量が多いので、気になる方は本書を手に入れて読んで欲しい。

78ページ 会話について

三島由紀夫が悩んでいた。

私は小説中の会話を、一種の必要悪と考えて諦めることにしている。

地の文を洗練し、物語がクライマックスで騒ぎ出そうとも

作者として冷静であることに努めれば努めるほどに

登場人物の会話が滑稽に見えると言うのだ。

どんなに深刻な会話であっても、地の文に比べれば、魂の重味が軽いような気がするのは、私が単に日本人であるためかもしれない。会話にはどうしても浮薄な性質が抜けきれぬように感じられるのは、一番重要なことは口に出して語らないという我が文化伝統のせいかもしれない。

 ヒントになりそうな一文をさらに引用しておく。

私は手綱を引き締め、会話の一つ一つのリアリティーの裏附けのため、顔の表情や心理の動きや情景描写を点綴する。

日本の文化伝統の染みついた三島由紀夫が、言霊、

言葉のことをあえて言霊と言わせてもらうが、

言霊の視覚化に苦心していたように思う。

会話といえばいかにも軽くて他愛ないものに思えるが、

言霊と書くと重みと抽象性が増して人物や環境よりも

描写の難しい存在に感じられる。

私は三島由紀夫の悩みとはこの部分ではないかと思った。

106ページ 小説家と犯罪

 三島由紀夫が考える作家としての基本を引用しておく。

法律や世間の道徳がどうしても容認せず、又もし弁護しようにも所与の社会に弁護の倫理的根拠の見出せぬような場合に、多数をたのまず、輿論をたのまず、小説家が一人で出て行って、それらの処理によって必ず取り落とされることになる人間性の重要な側面を救出するために、別種の現実世界に仮構をしつらえて、そこで小説を成立させようとするものであった。

新聞やニュースで説明される人物像が嘘であると、

小説だけが真の人間性を発見できるという話しだと読み取った。 

これを性善説性悪説を交えて解説をしてくれる。

また小説の逃げ道になるとのことだ。

もし性悪説が正しいなら、どんなに凶悪な犯罪も、われわれ自身の共通の人間性の繁栄に他ならないが、もし又性善説が正しいなら、機械的に犯人とわれわれは同じ出発点に立ち、われわれのほうがいくらか運が良かったと言うだけのことになる。

遺伝子解析が終わった現在では、

おそらく性善説は存在し、かつ性悪説もまた存在する。

人間性とは遺伝子情報の羅列で説明できてしまうのだろうか。

現代の作家のテーマの一つであると思う。

136ページ 文体

私は個性が文体だと勘違いしていた。

三島由紀夫にずばり否定されてしまった。

文体は普遍的であり、文章は個性的である。文体は理念的であり、文章は体質的である。

 未だに私の文体とはこれだと言い得ることはできないのだが、

三島由紀夫の解説を読めば読むほどわからなくなるというのが正直なところだ。

浅草のお好み焼き屋の描写にだけ妥当するのは文章にすぎず、文体はもちろんそういうものをも描きうるのみならず、大工場でも政府の閣議でも北極の大航海でも、あらゆるものを描き、あらゆるものに妥当する。

普遍性があって理念があれば、あらゆるものを描ける。

ではどうやって文体を獲得するのか。

言葉のそれぞれの比重、音のひびき、象形文字の視覚的効果、スピードの緩急、・・・・・・こういう感覚を生れつき持った人が、訓練に訓練を重ねて、ようやく自分の文体を持ち、はじめて小説を書くべきなのである。

もはや救いがなかった。

感覚はどうやったら判別できるのか。

感覚がなかったら訓練しても意味はないのか。

書き続けることを不安にさせられた。

ある象徴的ではあるが、同時に視覚的な一場面が浮かんでくると、それは視覚的でありながら、音楽的な感動を私によびおこす。私はその音楽を咀嚼する。その間に、おそらくその小説の文体が決定されてくるのだ。というと、小説家は、自分の書く小説のそれぞれに文体を変えうるように誤解されるかもしれないが、われわれが自分の肉体を抜け出せないように、文体も個性から完全に離脱することは不可能である。不可能ではあるが、小説家は別に創造の自由の自覚を持っていて、さほど自分の限界を気にかけない。

小説全般で共通するように言いながら、小説ごとに文体が決まると言う。

個性的なものではないと言っておきながら、個性から脱しないと言う。

文体に関する解説は、混乱するばかりである。

長編小説では、作者自身のためにも読者のためにも、緊張した場面の後に多く息抜きの場面が作られる。そういうとき、息抜きの場面をしっかりと保持するものは、文体の力に他ならない。文の各細部は緩急強弱の様々なニュアンスを持つけれど、文体はあらゆる細部にわたって、同じ質を維持しなければならない。

もう遺伝子解析で文体を明らかにしてくれと匙を投げたくなった。

文体とはプロットであり、普遍性のある読みやすさであり、

作者の理念で書かれた小説である。

正直、未熟ゆえに手に余る内容だった。

156ページ 主題・環境・構成・書く

 勝手に三島流創作術と呼んでいる。

第一に主題を発見すること。

(中略)

私はしかし、その主題を曖昧な未発見の形のままにしておいて、直ちに制作にとりかかるということはほとんどない。まずその材料を吟味し、ふるいにかけ、エッセンスを抽出しようと骨折る。そして自分が無意識にそれに惹かれていた気持ちを徹底的に分析して、まずすべてを意識の光の下へ引きずり出す。材料を具体性から引き離し、抽象性にまで煮詰めてしまう。

(中略)

その過程で、自分がどうしてもその抽象化された主題に同一化することができなければ制作を放棄する他はない。

自分と同一化できるとあるから、主題とはおそらく人間性を指しているのだと思う。

根拠は、犯罪者への共感から小説を書けると述べていたからだ。

第二に環境を研究すること。

(中略)

小説がフィクショナルなのは正にこの点であって、(自然主義小説もこの点では全くフィクショナルなのだが)、実際の生活人にあっては鈍磨している環境の描写を精密にして、読者がその環境描写を通じて、登場人物への感情移入ができるように、手助けしてやらねばならない。

(中略)

小説は、新鮮な印象と鈍磨した生活感覚とを、何とか上手く縫い合わせ、配合させて、そこに現実よりも強烈な現実を作り出さなければならない。

 三島流のリアリティである。

第三に構成を立てること。

これはかなり機械的な作業で、最初に細部にいたるまで構成がきちんと決ることはありえず、しかも小説の制作の過程では、細部が、それまで眠っていたある大きなものを目覚めさせ、それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。

(中略)

それをむりに構成しようとする努力は、多くは徒労に終わり、大ざっぱに序破急を決め、大きな波形を想定しておく程度にしておいたほうがよい。

 文体の一部であるプロットの出番だ。

この時点で作家の個性・体質と理念・普遍性がせめぎ合いを起こすと思われる。

第四に書きはじめること。

(中略)

ここへ来てはもう方法論もクソもない。私は細部と格闘し、言葉と戦って、一行一行を進めるほかはない。そして物語の展開に行き詰まったとき、いつも私を助けるのは、あの詳細なノオトに書き付けられた、文字による風景のスケッチである。

環境の研究で三島由紀夫はノートを作っている。

筆が止まったときはそれを見ると良いらしい。

168ページ 三島由紀夫の問題

むしろ小説というジャンルを限定する作業が私にとっての最大の問題である。このジャンルは厳密な意識的な技術的条件を持たぬために、技術の安定を欠き、本質的な自由を失い、芸術としての自立性を欠いているのである。小説はしたがって、詩よりも造形美術よりも音楽よりもはるかに小さなジャンルである。この小さなジャンルの厳密な計量に基づいて、小説の技術的条件が発見されなければならない。つまり誰もがそこを通れる門、しかもそこを通ることによって明瞭な芸術性の弁別がなされる門が開かれねばならない。

(中略)

この小説の技術的条件は、さらに言葉の――国語の――吟味の上に成立つ。私にはまだそれがどういうものになるか予見することはできない。 

私は、国語の授業で小説を取り扱い、明瞭な芸術性を教えられた記憶がない。

というか芸術性とはなんであろう。

著作権では、「思想又は感情を創作的に表現したもの」とあり、

芸術性ではなく独自性を根本としている。

文体が独自性をもっているのだから妥当だと思う。

だが、法律では芸術性を判断できない。

美しければ善で醜ければ悪、にはならないからだ。

芸術性とは、三島由紀夫の考える理念や普遍性ということになるのだろうか。

理念はともかく、普遍性のある文章はあるのだろうか。

もともと日本語に文字はない。

音だけが日本語なのだ。

漢字を取り込んで平仮名と片仮名に崩した。

漢文の文法ではなく日本語の文法で文章を書くようになった。

美しい日本語とは美しいやまと言葉、言霊ということになるのだろうか。

文字である以上、小説は日本語の美しさを追求できない可能性がある。

私が思うに、誰もが小説を書ける技術的条件の一つは、

人間性の濃縮された普遍性のある日本の言葉であろう。

もちろん、その言葉に到達するまでの構成を作れる技量が必要である。

まとめ

本書は三島由紀夫の創作に対する思想が凝縮されている。

様々な著作を例に出して解説している。

私が抜き出したのは一部にすぎない。

面白かったのは、文体の推移の解説である。

尊敬する作家の影響を受けていると自分で解説しているのだ。

興味を持っていただけたら手に入れて一読されたし。