書評『古代ギリシャのリアル』

私はギリシャ神話にかぶれている。

そのきっかけとなったのが次の本である。

 

古代ギリシャのリアル

古代ギリシャのリアル

 

ギリシャ神話はネットで調べればわかるけれど、

神話と古代ギリシャ人の繋がりはわからない。

そんな疑問に答えてくれるのが、藤村シシンの『古代ギリシャのリアル』だ。 

古代ギリシャ人がどのような信仰をしていたのか。

その片鱗が見える書籍となっている。

また、ギリシャ神話をかなりかみ砕いて解説しているので、

間違ってギリシャ神話を覚えているのではないかと戸惑うほどだ。

この書籍を読んで、古代ギリシャ人は日本人と似ていると思った。

一神教ではなくゼウスを中心にした多神教で、毎日祈る神様がいれば、

困ったときに頼る神様もいる。

困ったときに頼られる神様で面白いと思ったのはアポロンである。

問いかけにひねくれた神託を授けたり、犯罪者は門前払いしたりするのだ。

こういう神様のエピソードは欄外に注釈があって出典を確認することもできる。

これより章ごとの解説をしたいと思う。

一章 「古代ギリシャ」の復元

ギリシャ神話というより、古代ギリシャへの偏見について解説されている。

ギリシャ建築は白いと思いこんでいるのは、

外国の人たちで実際は彩りの豊かな建築物であるとのことだった。

この本を開いて最初に驚かされる事実だった。

まさか大英博物館の職員が色をはがすとは思いもしなかった。

他にも様々な偏見があり、一章では古代ギリシャに対する偏見を認識させられる。

二章 ギリシャ神話の世界

デフォルメされたギリシャ神話のイメージがあると、偏見を指摘した上で、

実際の神話像を神々の履歴書というユニークな形で紹介している。

紹介される神はオリンポス十二神に絞られている。

ただ、ギリシャ神話で有名なヘラクレスは神々との交流が多いため、

至る所に顔を出す。ヘラクレスを知りたい人でも読む意味はあるだろう。

三章 古代ギリシャ人のメンタリティ

私が一番読みたかったところである。

古代ギリシャ人の労働観、宗教観、死生観などが書かれている。

ここを読んで私は古代ギリシャ人に親近感を抱いた。

日本人にあまりなじみのない古代ギリシャ人を小説に書けたのは、

この本のおかげである。

おすすめな読者

  • オリンポス十二神について知りたい人
  • 古代ギリシャ人について知りたい人

 

書評『英雄のようなカナシウス』

古代ギリシャ風の人たちが、地球ではないどこかで蛮族の王と戦った。

蛮族との戦いは九十九戦全敗だった。

蛮族の王に支配される未来がちらつく中で、

くじ引きで選ばれた英雄カナシウスは仲間と奮闘する。

見所を簡単に書いていく。

カタカナの部分は古代ギリシャか日本の古語を用いており、

耳慣れない音にたくさん触れられる。

ギリシャ神話から抜け出してきたような巨人との戦いや

哲学者との裁判闘争がある。

戦争・奴隷・裁判・哲学者・都市国家

古代ギリシャの文化、ポリスを中心とした国家群の社会。

といった所だ。

神官と巫女という特殊能力者が存在する。

神官はどんなに小さい声でも聞くことができる。

神官同士はどんなに離れていても会話ができるのだ。

巫女は魔法使いのような存在で、

自然を操ったりどこからともなく道具を作ったりできる。

主人公のカナシウスは英雄として、

神官戦士や巫女、はては盗人と一緒に蛮族の王へ挑む。

ロールプレイングゲームのパーティを意識した構成になっている。

ゲームの世界のような試練が次々にカナシウスと仲間達に降りかかる。

くじ引きの英雄は、試練を乗り越えるたびに本物の英雄へ近づいていく。

クライマックスは静かに湛えた水面の下で煮えたぎるマグマが脈打つようである。

読後は、抹茶を飲み干した後のような爽やかな苦さを味わえる。

恋愛はする必要なし

私が『第一志望、AV女優』を書いたきっかけの一つに、

恋愛というものが明治以来の偽物であると知ったことがある。

 

恋愛の起源―明治の愛を読み解く

恋愛の起源―明治の愛を読み解く

 

 この本によると、明治に恋愛という熟語が生まれた。

その前に愛という言葉の意味が変わったというのだ。

キリスト教に影響を受けた明治の文豪たちが、

愛という言葉にキリスト教風の意味を付け加えた。

ここからは持論を含む。

キリスト教風の意味とは、キリストの前で宣言する愛のことである。

病める時も健やかなる時も、と始まる宣言である。

神が引き合わせた運命の相手に尽くせ、そうすれば幸せだという内容である。

この無償の愛が、幸せを約束された運命の相手がいると文豪たちに錯覚させた。

また、そのような女性との結婚生活で魅了した。

こうなってしまうと、明治の文豪は十字軍になってしまうのだ。

彼らは敵を必要とした。運命の女性のために障害となる悪魔を作り出したのだ。

それが遊女である。

江戸時代において色恋は遊女とするものであって、家にはつまらない嫁さんがいた。

美しく手に入れたい女性は遊女だった。

それを覆そうとしたのがキリスト教に影響受けた明治の文豪なのだ。

遊女のような玄人ではなく、素人の女性を運命の女性に仕立て上げようとした。

聡明で才気にあふれる素人の女性を作り上げた。

遊女から聡明さと技芸を取り上げて素人女性にくっつけただけなのだ。

文豪の技か一般大衆は、架空のヒロインこそ理想と考えるようになった。

また、見合いも蔑視された。

自由な恋愛からの結婚こそ正当な結婚であるかのように描かれた。

遊女の色恋とキリスト教風の愛、それをくっつけて恋愛が生まれたのだ。

ここから書籍を離れる。

恋愛が偽物であると知った私は、本来の、日本風の愛とはなにか気になった。

気になったというのも調べて答えを見つけようとは思わなかった。

小説を書くことで答えが見つかると思ったからだ。

だが、幸か不幸か私は知識に巡り合う運が良いらしく、答えの動画に出会った。

あいにくとその動画は、

悪意あるBAN祭りとやらでYOUTUBE上からなくなってしまった。

動画のタイトルも忘れてしまったが、

憲法学者にしてラーメン屋の竹田恒存さんの動画だった。

内容はもっとうろ覚えだったが、大御心という言葉を初めて聞いた。

以下の内容と同じだと思う。

www.hokkaidojingu.or.jp

それがなにやら天皇の上にある概念であるという話だったと記憶している。

その話を聞いて、キリスト教風の愛がキリストから生まれたことと符合した。

そうか日本風の愛とは大御心だったのかと気づいた。

私の小説では、そういう流れが刻まれている。

ここから少し科学の話になる。

恋愛の正体は、神経伝達物質であるドーパミンである。

こう言ってしまうと恋愛小説の仕事は、ドーパミンの過剰分泌を描写すれば終わる。

このドーパミンが分泌される時期は決まっており、

一度分泌されたら三か月で切れてしまう。

しかも、このドーパミンの分泌は思春期以降一度だけとなっている。

人間は、この三か月の間に依存症になる。

ドーパミンは、脳内麻薬と言われる物質だ。

この状態で特定の異性に対して快楽神経を異常に刺激されるのだ。

快楽を欲する神経は、それを邪魔する言葉に耳を貸さない。

いわゆる恋の盲目状態である。まさに運命の相手に見えているのだ。

ドーパミンが切れた人間はどうなるのか。

ドーパミンのもたらした快楽やときめきを求めるようになるのだ。

いわゆる禁断症状である。

ドーパミンに見せられた異性へのときめきを取り戻そうと恋愛に走る。

このときめきこそ、明治の文豪が誤認したキリスト教風の愛であると思う。

恋愛はする必要なしというタイトルにしたのはなぜか。

偽物であるからだ。

恋愛というのは思春期の一時のものであって幸せを約束するものではない。

私は作家として人間の幸せを考えるとき、どうしても恋愛に引っ張られる。

小説や映画、ドラマで散々にすり込まれてきたからだ。

現代の小説や映画、ドラマの下敷きに明治の文豪の勘違いがある。

私はそこから抜け出したい。

本来の日本風の愛、大御心を取り戻したい。

親殺し、子殺しの取りざたされる日本社会に流布すべきものと考えている。

 

 

 

書評『第一志望、AV女優』

生徒が、進路の面談で「AV女優になる」と言い出したら教師はどうするのか。

しかも援助交際をしている不良でもあるとしたら?

『第一志望、AV女優』は、そんな超難問に立ち向かう教師を

素朴に追い詰める女子高生の話となっている。

 

簡単に見所を書いていく。

主人公である小林優美の心理描写に力が入っている。

教師よりも同級生との本音のぶつけ合いがメインになっている。

こんなタイトルだけど、実は高校生向けの作品である。

主人公とぶつかる友人で宇田川小萌という茶道部の女子が作者のお気に入りである。

援助交際という暗い要素もあり、若干のサスペンスもある。

一歩も二歩も踏み込んでがっちりとハッピーエンドをつかみ取る。

そんな作品になっている。はっきり言って泣けるはずだ。

作者は、女子高生という生き物を描写するのに苦心していた。

特に化粧である。清水優美が登場するとき、ずっと同じ顔ではないのだ。

書いてみてわかったが、女性の化粧にかける苦労を男性はもう少し理解するべきだ。

学園ものにありがちな説教くさい台詞を書かないようにもしている。

教師の小林寛文は、古典の教師で冗談の通じない嫌われ者だ。

教師と生徒の境界をきっちりと弁えるタイプで馴れ合いをしない。

そんな堅物が、不良生徒をばっさりと切り捨てるかと思うとそうではない。

後半で明かされるなんとも言えないような理由で、清水優美に寄り添っていた。

この作品は恋愛を敵視している。それをテーマとした作品なのだ。

その理由は次回の記事に書くことにする。

 

gayu-1tetsu.hatenablog.com

 

好きな外国語

英語と仏語を学んだけど、あまり好きにならなかった。

どうにも外国語の素養がないらしい。

学んでいて楽しいと思わないのだ。

ある作品でギリシャ神話を扱おうと決めたとき、なにか簡単にギリシャ語を

学べないかと思い、読んだのがこの本である。

 

古典ギリシア語のしくみ (言葉のしくみ)

古典ギリシア語のしくみ (言葉のしくみ)

 

 日本語に古語があるようにギリシャ語にも古語がある。

ギリシャ語の場合は古典ギリシャ語と言うらしい。

なぜ古典ギリシャ語かというと、ギリシャ神話の時代は古代だからである。

それに、神話と繋がる言語というだけでモチベーションが上がったのだ。

英語だって聖書があるじゃないかと言われるかもしれないが、聖書の成立よりも古い

ギリシャ神話の方に魅力を感じた。

上の書籍は、難しい文法や簡単すぎる発音などと言う教科書みたいな感じではなく、

ちょっとした小話のような感じで古典ギリシャ語を紹介してくれるのがありがたい。

当然のことながらいきなり古典ギリシャ語の単語を出されても読むことすらできない。

しかし、その当然のことから始めるのが新しい言語に触れる新鮮さを感じさせた。

読み進めていくと、円周率のπや三角関数でおなじみのΘ、数列のΣなどが

古典ギリシャ語の中でアルファベットのように出てくるのが面白かった。

また、世界史でも有名なアルキメデスピタゴラスが古典ギリシャ語で書かれおり、

それが読めたときにちょっとした感動がある。

過去と繋がったというか、日本語に翻訳されていない本来の姿に触れることができた

喜びを味わえる。

英語の元になったラテン語、そのラテン語の元になった古典ギリシャ語。

英語の語源にもなっているという解説や古代ギリシャの哲学者の格言、

ホメロス叙事詩の原文など例文が豊かだ。

本の構成のうまさもあるのですが、とにかく読みやすく古典ギリシャ語を学ぶ

最初の一冊にぴったりだった。

単語や名詞を見るだけで小説に取りかかる意欲が沸くのだ。

ファンタジー系の小説を書いていてなにかインスピレーションが欲しいというときに、

古典ギリシャ語とギリシャ神話をおすすめする。

書評 『スターバード・ビュー』

神話をベースに、現代日本を舞台としたファンタジー

人間はどこから来たのか。そんな問いかけにいきなり答えるのが『スターバード・ビュー』という作品だ。

この作品では、人間は人間ならざる存在によって星々を移動している。

SFに寄れば異星人や異次元の存在による植民あるいはほとんど支持されていない進化論に準じた原生生物からの進化が、ファンタジーに寄れば流行にもなった神や魔法の力による召喚・転生というものが想像できる。

が、本作はその部分をあえて野生のやり方で人間を連れてきた。そう題名にもある通り、スターバードである。本作では、その存在を「星鳥」や「星渡る鳥」など様々な呼び方で表している。

鳥が人間を運ぶと聞くとコウノトリの伝説を思い出す方もいるだろう。まさにその通りだ。ウルトラマンシリーズの宇宙怪獣と呼ぶにふさわしい大きさの鳥が来襲して、人間をかっさらっていくのだ。

この星鳥は人間の事情などお構いなしで、自分の繁殖のために人間へ精子となる羽を託して別の星へ送り込む。その羽を託された人間は、星鳥の繁殖のために行動せざるを得なくなるのだ。

羽を託されただけで、人間が星鳥のためにすんなりと働くのかと疑問に思うだろう。星鳥は神話や伝説という形で星ごとに残されていることになっている。そう、ここで神話と鳥の関わりがこじつけられているのだ。人間は鳥に導かれて新天地へとたどり着く。そんな風な神話を持った人間が物語りの中心になっている。

彼らは信仰を原動力として、とにかくスターバードの繁殖を成功させるために行動する。そんな彼らにファンタジー要素が付随する。「第二の○○」という超能力を持っているのだ。

ある者はその力で食人族という驚異を生み出し、一県を丸々封鎖させている。ある者は失われた言霊の使い手で好奇心のままに日本を旅する。ある者は予知能力を駆使して物語を誘導していく。能力者はスターバードの物語を成立させるために行動しているのだ。

主人公は、能力者達に導かれることになるのだが、自分のことばかり考えてしまうので終始葛藤ばかりである。それがくどいと思う読者もいるだろう。

読後は爽やかであるが、少し寂しさも感じる。前向きな終わり方をしていると思う。最後の部分に古事記にある有名な話の自己解釈が書いてある。我ながら面白い解釈だと自負している。興味を持ったのなら読んで欲しい。

神話観

様々な宗教の神話を比べたりできるのは、多神教ならではだと思う。

古事記ギリシャ神話、北欧神話をかじったところ、似ているところがあった。

同一の民族が作った訳でもないのに、なぜ主神には鳥が寄り添うのであろうか。

日本神話の主神は誰かということにもなるが、私は初代、神武天皇であると考えている。

すると、神武天皇には八咫烏、ゼウスには白鳥の座、オーディンにはフギン・ムニンのワタリガラスがいる。

鳥は主神に仕えるものなのだろうか。それとも主神が鳥を従えるものなのだろうか。

もう一つ、類似点がある。蛇退治だ。

八岐大蛇やギリシャ神話に現れるメデューサヒュドラなどの怪物、北欧神話ヨルムンガンドがそうだ。

蛇はもともと、その土地の地母神であると考えられる。

鳥が空を表し、蛇が大地を表すのは古代の人類がもつ共通の価値観なのだろうか。

蛇は土着の神であると考えると、鳥は外来の神と考えられる。

そう考えると、外来の神が地母神と争い主導権を握ったと解釈できる。

「歴史は勝者が残すもの」という原則に従えば、この三つの神話は主神のための神話であると考えられる。

まだしっかり勉強していないが、エジプト神話の太陽神ラーは鳥の頭を持った人物として描写されている。

ファラオは「ラーの息子」とされ権威を神から保証されている。

エジプト神話には明確な神の序列はないが、王の権威を保証しているあたりラーは別格、つまり主神であると思われる。

エジプト神話にも蛇の怪物がいる。ラーの乗る太陽の船の運航を邪魔する最大の敵として大蛇アペプが存在する。やはり蛇は敵なのだ。

ただ、神話は多様で一概に鳥対蛇の構造ではない。

モアイで有名なイースター島鳥人も素晴らしい。エジプト神話のラーと同じで鳥の頭を持つ人間として描かれているが、蛇と対立していない。

ギリシャ神話でも、伝令の神ヘルメスは翼と蛇の杖を持っている。

エジプト神話では、運命の女神シャイは蛇の姿だし、豊穣の女神レネネトはコブラの頭をしてる。

蛇を完全な悪者にしないのが、古代人のマナーなのかもしれない。

極めつけが、アステカ神話ケツァルコアトルだ。ウィキペディアによると、古代ナワトル語で「羽毛ある蛇」という意味の名前を持っている。モデルとなった人物はライバル神の陰謀で焼身自殺することになるのだが、その遺灰から鳥が生まれて飛び立つという話がある。

鳥と蛇が一つの神の中に同居するという珍しい存在だ。

この神と対立しているのはジャガーで、民族性というか地域性を表している。

怪物枠として現れるのは海の中にいるワニの女神、その名も大地の怪物シパクトリ。

海の中にいるのになぜだと思うが、後に神によって引き裂かれ大地になるからだ。

このワニの女神は、水の蛇ともワニ頭の魚とも言われているらしい。

怪物は鱗持ちと決まっているらしい。

私は、神話は鳥と蛇を核にして作られていると考えている。

そして古代の人たちがなぜ鳥と蛇を中心に神話を作ったのか知りたい。

最初は一つの民族だったのかと思うほど、共通の価値観を持っているようにも見える。

もしくは、ある一つの強大な民族が世界の土着の民族と交わったのかとも思える。

とりあえず今日はここまでにしておく。

 下の書籍は、私が蛇の重要性に気づくきっかけとなった本です。

山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)

山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)